依存と拒否
 
 
人に依存すると
人に思いがけない忠告をされたとき
自分を否定されて
裏切られたような気になってしまう
 
神に依存すると
神は人に忠告したり否定したり
直接なさらないから
いつも神を裏切っているような気にもなる
 
そうならない信仰者は少しおかしいと思う
 
人は人の助けなしには生きられないが
人に寄りかかってしまうと
寄りかかられた相手は
完全無欠でも全知全能でもないのだから
相手にとっては酷というものだろう
 
寄りかかられて耐えられる人はいない
ということは寄りかかるに値する人はいない
 
しかし
ある程度人は孤島にでも住まない限り
寄りかからなければ生きられないところがあって
依存と独立の距離感は微妙だが
人にもよるし
付き合い方にもよる
 
少なくとも対等に
重要な問題について
話し合おうとするならば
 
同好会の談笑とは違うのだから
 
遠慮や忌憚があるような付き合いは
偽物だと言っておきたい
 
したがってそこに
人と人との依存を当てはめるのは
問題回避か自分の都合に過ぎないもので
そこに自分勝手な距離を一方的に定めるのは
依存の否定ではなく
関係の否定に他ならない
 
そう言えるのは
問題とテーマがそれだけ重要であり
人と人とが正面を向いて対決しない限り
深めることも掘り下げることも出来ないときであり
 
それを一方が依存だ甘えだ
などと受け取るのは
もう一方にとって
「誰があんたなんぞに甘えるか」
という気持ちの悪い陰性の感情と
さらなる対決姿勢を呼び起こすもので
 
依存の距離感と性質を理解していない
という間違いであり
依存が拒否されたことを
依存が裏切られたと見なしてしまう勘違いであり
自分が依存されるに相応しい
という自己陶酔か思い上がりに過ぎないだろう
 
むしろ依存して甘えているのは相手ではなく
相手が期待通りの発言をしてくれる
と思い込んでいる自分のほうなのである
 
(2011年07月13日)