原初の信仰から
 
 
最初に信じたことが
後付けされた確信を否定する
 
生きている個人が最初に信じたこと
つまり原初的で根源的な信仰こそが
後付けされた傲慢な「確信」を否定する
一見好ましくても
人が作った信仰の尾ひれを否定する
 
神を恐れよ
神に近づくことは出来ない
 
神に出来ないことはないが
人には出来ないことがある
ここで
人に出来ないことに明らかに含まれるのは
神の立場と行為を確認することだ
 
神を恐れよ
神を近づけることは出来ない
神に近づくことは出来ない
 
 
(旧作から少し借りて)
 
たとえ?として
 
 
神は火である
人は一本の髪の毛である
 
髪の毛は
火を仰ぎ見ることしか出来ない
 
火に髪の毛をかざしても
火を髪の毛に近づけても
髪の毛は一瞬のうちに縮み上がり
燃え尽きる
 
人が生きていられるのは
神に近づくことも
神を近づけることも出来ないということだ
 
また言うまでもなく
聖人や預言者の言動を
自らに当てはめるのは傲慢である
 
 
(前にも述べたようなこと)
 
原罪について
 
 
キリスト者なら
失楽園に始まる人の肉による原罪を認めない者はいないだろう。
認めるからこそ救いを求めて信仰に至るのである。
しかしながら人の信仰そのものに原罪がある
ということを認める者には、まだ出会ったことがない。
信仰に原罪があるなどと語れば
無視されるか排斥されるのが落ちである。
 
多くのキリスト者は原罪から救われるために、
より強い信仰を求めている。その強さとは何か。
信仰は、神の前にへりくだることから始まっている。
つまり強さとは神の前にへりくだることだ。
より強く
神の前に塵に等しい人の分際をわきまえることである。
信仰の強さはしばしば履き違えられている。
 
体験から生まれた神への思いは否定しがたく、
その後の生き方に大きな影響を及ぼす。
前にも述べたように
その体験が神からだと確認する根拠を
人は持ち得ない。
したがって、この「思い」は罪である。
しかし「思い」は思ってしまうのだから避けがたく、
ゆえにこの罪は「原罪」である。
傲慢の罪と違うところである。
 
信仰の原罪は肉の原罪と通じる罪であり、
どちらも避けようもなく持ってしまう罪である。
よって「原罪」と呼ぶ。
「信仰の原罪」によって信仰は成り立っているのである。
 
傲慢の罪は、神に対する人の立場をわきまえず
言葉や出来事において、やすやすと確信犯として
人と神とを結び付けてしまう。したがって
避けられない原罪よりも重いと言わざるを得ない。
それは強い信仰を求めるところにおいて
しばしば犯しやすい罪である。
 
「信仰の原罪」を認めない者は
ますます人と神の間のいわれなき注解者となって
神を主語(守護?)にした人の確信を付け加えてゆく。
それによって失ってゆくものは
神ならぬ人としての立場、つまり人間性である。
 
「信仰の原罪」と「傲慢の罪」の違いは
「思い」と「確信」の違いであるが、
言葉にすると微妙なものになる。
結局今考えられることは
神に対して
「信仰の原罪」を認め自覚するか否かにかかっている。
その自覚だけが唯一の
傲慢から遠ざかる救いの希望であろうと考える。
 
(2011年08月24日)