死者と救済
 
 
神は生ける者も死せる者も支配し救済する
というのは
神の全知全能からの思いである
しかし
死んだ人のことはもちろん
神が生きている人をどう支配し救うかについて
全知でも全能でもない人が
確信できることは何もない
神を恐れよ
 
一方
「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神」
という聖句がある
ここで注意すべきことは
この聖句は
生ける者に向かって語られているということである
神が死者にどう関わるか
あるいは関わらないか
生きている人に確信できることは何もない
神を恐れよ
 
人は神による被造物であることを思えば
神が自分の造ったものに対して
造るにしても育てるにしても壊すにしても
その理由を手取り足取り
いちいち納得できるまで人に説明はしないだろう
それゆえ神のなさることはしばしば
人には救済と思えないことがある
ゆえに神の行為について
人が確信できることは何もない
神を恐れよ
 
神を信じる者は
恐るべき御方として
無条件に
神を信じないでは生きられない者のことである
 
信仰は恐れを知り、確信は恐れを忘れる
 
神の行為について
人が確信できることは何もない
神を恐れよ
 
(2011年09月01日)
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(上の本文に示した聖句:
マタイ22:32、マルコ12:27、ルカ20:38)
私は学者でも牧者でもないから詳しい聖書の解釈は知らないが、
上に挙げた聖句であるキリストの言葉の前後には
「アブラハム、イサク、ヤコブの神」
という当時としても大昔の祖先の名前が書かれてあり、
「人はみな神に生きるもの」という聖句もあり、
キリストは肉体の死を
「死」とは考えておられなかったような気もする。
 
また別に
葬式に行かせてくださいと言う弟子に対して
「私(キリスト)に従え」「死人の葬りは死人に任せよ」
という聖句もあるが、(マタイ8:21-22)
これは上とは別の意味を持つのかもしれない。
キリストの弟子がキリストとともにいて
直接教えを聞くことの出来る期間は僅か約3年であり、
それゆえ今優先すべきことを言われたのであろうか。
 
いずれにしても、前にも述べたようなことだが、
聖書は必ず人の解釈を通して読まれることを思えば、
約二千年前の聖書の登場人物を、
聖書の記事だから正しいという理由で、
気安く自らに当てはめて人に対するのは、
聖書を学ぶ態度ではなく、
自分を聖人と同格と見なす行為であり、
聖書の乱用、さらには
聖書くずれの信仰とでも言うべきものであり、
遠慮を持って慎むべきことである。
 
今回、私は聖書の解釈めいたことを書いたが、
どんなに聖書に詳しい人であっても、
人の解釈は、あくまで人の解釈であって、
どこまでいっても、
神への思いが強くなることはあっても、
神の行為の確信に至るものではない。
 
正しいと思う言動において人は怯むべきではないが、
その思いと信仰のうちに
神への恐れを抱き、ゆえに
自らの罪性を絶えず省みるべきである。
神への確信が信仰なのではなく、
神への思いと神への恐れが信仰である。
それが「神を恐れよ」を、とみに私は衰えてゆくのに、
あえて執拗に、うんざりするほど繰り返す理由である。
そう遠くもないような何時の日か
絶望か希望かの最後の悲鳴か叫び声を上げてのち、
考えることも信じることも掻き消えて、
もはや人に属する何ものも要らなくなる世界へ・・・