猛者への堕落
 
 
人間性を失った信仰には
ある種の猛々しさが残る
 
せっせとお味方になる意見を集めている
それは猛々しい文章である
その威勢のよさの分だけ
また人間としての共感を失ってゆくのは
字面だけを追って
お味方になる意見なら好むからである
 
ヒューマニズム云々を批判し
福音の変質を語る前に
他者を語る前に
人が考えるべきもっと重大な
自らの問題を考えなくなる
 
人間性を欠いた信仰は
神性と神聖と真正の確信に満ちて
正当化に懸命になる畑で偽善の種を育てる
 
自らに目を向けず
反対意見に耳を貸さず
お決まりの文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく
 
そして実際に賛同者以外とは
つまり反対する人とは話さなくなる
そしてその根拠を神に担保してもらうのである
しかし、いったい
恐れを知る信仰でもない尊大な確信に
神に担保されうる何があろうか
しかし、それでも保険のように
神の側に担保される
という神の意思を自らのものにして
さらに確信してゆくしかない
そして信仰の残酷物語の主人公になってゆく
 
信仰に羞恥心を持つ必要は元々ないが
人が持つべき羞恥心は
信仰によらない、あるいは
さらにひどいのは信仰によると確信して
異なる意見を切り殺す非人間性による自らの行いについてである
 
しかも嘆くべきは
確信に満ちた非人間性は
元々羞恥心を持たないという特徴なのだ
 
(2011年09月22日)