神の愛と人の愛
 
 
信仰者は神の愛を想うから
隣人愛においても
神の愛を施そうと想ってしまう
 
神の愛を説いているはずだと
聖書の言葉について語る
しかし人の愛は
たとい聖書の言葉を用いても
終に神の愛に至ることはない
 
語るとき既に
人の解釈を通しているからだ
 
だから聖書を語るとき
その時々のTPOと相手によって
聖句を人の言葉として生かそうとしなければ
「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである」
(コリント1-13:1)
 
人が想う神は
想うところに描いているイメージの偶像である
 
人が想う人も
想うところに描いているイメージの偶像である
 
人と人は対話によって
ある程度の修正が可能だから
その分だけ共感が可能だが
それでも終に人は人を理解することはない
さらに対話がなければ何の理解も共感もない
 
まして相手が神ならば
イメージの偶像は
経験によってイメージが変わることはあっても
偶像であることは変わりようもなく
終に人は本当の神を理解することはない
神は人が理解できる対象ではなく
ゆえに神の行為も奇跡も人が理解できる対象ではなく
神が理解させたと人が理解できる対象でもない
 
神の愛も人の愛も
つまり信仰も
人が想い信じるところでは
アダムとイブの原罪と同じ原罪によって成り立っているのである
人は原罪を自覚して信仰に至るが
なぜか信仰の原罪だけは自覚しないようである
 
人は神に届かないのに
神との合一を目指して語り
神の道を歩もうとして
歩んでいるつもりになっているだけだ
 
信仰と希望と愛のうちで
最も大いなる愛(コリント1-13:13)
を語った使徒パウロと
今生きている人の間に
解釈と偶像という大いなる原罪のギャップを認めない信仰者は
罪を認めず
それゆえ神を恐れず
神の愛の偶像によって
人の愛を汚してゆくのである
 
(2011年11月20日)