ブログ「日常×非日常」に書いた私のコメント
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(信仰の思想化は本性か罠か)
 
言葉については本性でも罠でも当てはまると思います。
既に本性と言ってよいほど定着しています。
言い換えれば結局、似たようなことになりますが、
「本性だから仕方ない」が高じて傲慢が常態になっている世界で、
性根の腐った本性そのものを、命を失ってでも、
変えなければ・・というほど困難な現状認識だということです。
その本性ゆえに罠に落ちており、
自分も既に落ちており、これからさらに落ちるかもしれない
という自覚があるかどうかだと思います。
自覚があれば、ある程度気づくことが出来るでしょうし
少しは排除できるでしょう。
聖書に当てはめることで完結して、他人事のように語り、
自覚を持たないなら、気づくことが先ず出来ないのです。
人の側からは人間としての自覚だけが気づきを促します。
2011/12/20(火) 午前 6:41[ st5402jp ]
 
人の側で自覚できることを危機感を持って自覚することなく、
聖書にこう書いてあると言い立てて、
聖書に帰れ、キリストに帰れ、リバイバル云々・・は、
アメリカでも日本でも既に言われていることでしょう。
聖書は解釈次第ですし、キリストの住所は誰も知らない。
いわれなき注解者となって人のほうが引き寄せて
味方にしようとしている神は偶像に他ならない。
 
そういう神の御心のままに・・なんてのは、
考えることを、神によらず、自ら放棄した人の姿です。
2011/12/20(火) 午前 6:43[ st5402jp ]
 
リバイバルとかよりも
自らの信仰の人の器のリフォームが先だと思いまず。
さもなければ、いくら聖書的な言葉を引きずり出して唱えても、
そのことが却って、言葉で何と言ったところで、既に
主イエスを十字架に付け続けるという罪の意識さえ
自覚できないで悦に入る信仰になってしまっていると思います。
そういう場合、人の側からも、そういう信仰は
人間の信仰とは思えない、むしろ妨げている、悪魔だ、
ということはありうるわけです。
私は人を悪魔と呼んだ悪魔なのです。
そして悪魔がいっぱい、誰も例外ではないのです。
既に誰の信仰もどこか狂っているのです。
自分を圏外に置くべきではありません。
自覚は自分を圏外に置きません。
そこから始めるべきなのです。
自分の信仰を人の側からリフォームするのではなく、
信仰のマイホーム主義に陥るのが
まさに自らの本性を省みなくする罠なのだと思います。
(私のコメントをブログに書こうと思います)
2011/12/20(火) 午前 6:44[ st5402jp ]
 
旧約聖書を引っ張り出してきて、
敵を滅ぼしてくださいと神に祈る
=敵を滅ぼしてくださいと「神」と名付けた自分に都合のよい偶像に祈る
=敵が滅びることを「神」と名付けた偶像のもとに正当化する
この敵なるものは、
まさに自分にとっての敵であり、
聖書にあるような神の敵であるかどうかは分からないのに、
自分にとって都合の悪い相手を敵と見なすことを
偶像信仰によって正当化する行為ということになります。
偶像がいかに信仰の性根を腐らせるかを示しています。
2011/12/20(火) 午前 9:00[ st5402jp ]
 
(続き・付け足し)
信仰者であるがゆえに陥る悍しき被害妄想だと思います。
2011/12/20(火) 午前 9:08[ st5402jp ]
(2011年12月20日)