何度も書いてきたことですが、これまでの記事と、
ブログ「日常×非日常」に書いたコメント
などをもとに記事にしてみました。
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偶像と玉葱の皮
人が神を
特にキリストを信仰するとき
祈るときも感謝するときも
キリストの理想像を
人は心に思い描いています
その根拠は聖書ですが
それも人による聖書の解釈です
したがって信仰は
自分にとって望ましく好ましい
また都合のよい偶像ということになります
つまり信仰は偶像信仰にしかなりえないのです
信仰の偶像は忌むべきです
排除できるなら排除したいのですが
はたして排除できるでしょうか
信仰が偶像信仰にしかなりえない以上
単純に考えれば
偶像の完全排除は信仰の消滅でもありますから
完璧な偶像破壊も
真の信仰に至ることも
結局は不可能だと思います
しかし偶像を排除しようという意思を持つことは
折に触れて大切になるでしょう
経験を重ねるにつれて余計な尾ひれが付いてくるのが
人が信じるということの必然ですから
信仰の偶像を自覚しない信仰にならないために
偶像の排除は
玉葱の皮を剥くようなものかもしれません
剥いても剥いても切りがなく
刻めば出てくるのは涙だけ
しかも玉葱の芯が
真の信仰だという保証はないのです
だからといって
偶像排除など
しなくてよいということにはなりません
いかなる信仰であれ
自分に都合のよい偶像信仰に陥る危険はあり
偶像信仰だけならば
玉葱の皮をむいた後に残るものは何もありません
偶像信仰だけでないならば
皮をむき続けるのが信仰者の一生です
この場合
皮をむく作業は終わらないのです
したがって人は
皮をむく作業が終わるか終わらないかも予測できないまま
作業を続けることになります
それは空しいだけだと止めてしまうと
玉葱の皮に気づこうとしないまま偶像信仰が続く
という最悪の偶像信仰に陥るでしょう
信仰の偶像を自覚する信仰であるために
剥いて刻んでも出てくるのは涙だけ
だからこそ
玉葱の正体を知りたいなら
ありったけの涙を流すべきなのです
(2011年12月21日、同日一部修正)
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原初的で不可避な偶像信仰を「信仰の原罪」と呼ぶべきこと
そして「信仰の原罪の自覚」が
すわなち「偶像信仰だという自覚」が最も重要だということ
(自覚がなければ「信仰の原罪」は「傲慢な確信」に変わるだけです)
その上で初めて拠りどころとなる神への依存
信仰が成り立つ
ということを今までずっと述べてきました
聞く人もいないのに・・
余談ながら昔
動物園の猿にラッキョウを与えたら
剥いても中身がないので
猿は怒って投げ返してきた
という話を聞いたことがあります
誠に余談ながら
人間は考える動物です
猿よりは深い思慮を持ちたいものです
ブログ「日常×非日常」に書いたコメント
などをもとに記事にしてみました。
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偶像と玉葱の皮
人が神を
特にキリストを信仰するとき
祈るときも感謝するときも
キリストの理想像を
人は心に思い描いています
その根拠は聖書ですが
それも人による聖書の解釈です
したがって信仰は
自分にとって望ましく好ましい
また都合のよい偶像ということになります
つまり信仰は偶像信仰にしかなりえないのです
信仰の偶像は忌むべきです
排除できるなら排除したいのですが
はたして排除できるでしょうか
信仰が偶像信仰にしかなりえない以上
単純に考えれば
偶像の完全排除は信仰の消滅でもありますから
完璧な偶像破壊も
真の信仰に至ることも
結局は不可能だと思います
しかし偶像を排除しようという意思を持つことは
折に触れて大切になるでしょう
経験を重ねるにつれて余計な尾ひれが付いてくるのが
人が信じるということの必然ですから
信仰の偶像を自覚しない信仰にならないために
偶像の排除は
玉葱の皮を剥くようなものかもしれません
剥いても剥いても切りがなく
刻めば出てくるのは涙だけ
しかも玉葱の芯が
真の信仰だという保証はないのです
だからといって
偶像排除など
しなくてよいということにはなりません
いかなる信仰であれ
自分に都合のよい偶像信仰に陥る危険はあり
偶像信仰だけならば
玉葱の皮をむいた後に残るものは何もありません
偶像信仰だけでないならば
皮をむき続けるのが信仰者の一生です
この場合
皮をむく作業は終わらないのです
したがって人は
皮をむく作業が終わるか終わらないかも予測できないまま
作業を続けることになります
それは空しいだけだと止めてしまうと
玉葱の皮に気づこうとしないまま偶像信仰が続く
という最悪の偶像信仰に陥るでしょう
信仰の偶像を自覚する信仰であるために
剥いて刻んでも出てくるのは涙だけ
だからこそ
玉葱の正体を知りたいなら
ありったけの涙を流すべきなのです
(2011年12月21日、同日一部修正)
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原初的で不可避な偶像信仰を「信仰の原罪」と呼ぶべきこと
そして「信仰の原罪の自覚」が
すわなち「偶像信仰だという自覚」が最も重要だということ
(自覚がなければ「信仰の原罪」は「傲慢な確信」に変わるだけです)
その上で初めて拠りどころとなる神への依存
信仰が成り立つ
ということを今までずっと述べてきました
聞く人もいないのに・・
余談ながら昔
動物園の猿にラッキョウを与えたら
剥いても中身がないので
猿は怒って投げ返してきた
という話を聞いたことがあります
誠に余談ながら
人間は考える動物です
猿よりは深い思慮を持ちたいものです
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