悲劇と理不尽
 
 
自分のことでも人のことでも
この世に起こる悲劇を
ときに目の当たりにして
ときに傍観して見聞きするだけで考える
 
理不尽だ
 
悲劇は神の業か
悪魔の仕業か
人ならぬものの領域は分からない
しかし悲劇は人の世界で確かに起こっている
そして人はそこで生きている
 
目の前で肉親が殺されても
目の前で何万人が死んでも
生きている間は生きることを選んでいる
 
悲劇が起こっていることだけでなく
悲劇に納得できる正当な意味を求めること
死者を抜きにして悲劇を試練と信じること
死者を抜きにして悲劇の後の幸いを信じること
死者の意義を考えること
 
理不尽である
 
神の業は知らない
人が考えられることがあるとすれば
悲劇を受け止める人の有様が既に理不尽であり
悲劇だ理不尽だ不条理だと叫びながら
理不尽の中で既に
理不尽に生きることを決意しているということだ
生きることを選んでいるということだ
 
受け止めることは耐え難く
考えに是非はあっても
生きることに是非はないのである
 
(2012年01月07日、同日一部修正)
----------------------------------------------
言葉に尽くせないことが多すぎて、
当たり前と言われれば当たり前で、
幼稚と言われれば幼稚で、
浅いと言われれば浅いのでしょうけれど、
受け止め方は様々だし、おかしいと思うこともあるけれど、
生きること自体には正邪も善悪も真偽も是非もない
というような気持ちを書いてみたかったようです。
 
生きることを選択するなら、一方で
耐えられずに自殺することもありうることで、
重要な問題だけど、今回は自殺に触れることは控えました。
ここでは生きることがテーマだと考えたから・・。
私自身については、前に書いたような気もするが、
たとい私の人生が自殺で終わろうとも、
それを是非もないとか、さらに正当化するとかは、
ないだろうという思いがあります。
 
したがって本文の文脈としても、
こういう説明を加えることは卑怯なのですが、
生と死の選択の対比ではなく、
「考え方の是非」と「生きることの是非」を
対比したかった・・ような気がしています。
 
悲劇というほどではないのですが、日記として、
母が1月5日に腰が痛いと言っていました。
6日朝には蒲団から立てないと私を呼びました。
救急車とか、ひょっとして麻痺?とかも考えましたが、
何とか体を起こすのを手伝って立つことが出来て、
病院に行きました。腰椎圧迫骨折ということで、
約1ヶ月の予定で入院しました。その間
母は病院で、私は独り実家で過ごすことになります。
明日も身の周りの物とかを持ってゆく予定で・・
そんなこんなで慌しい日々が続きそうです。
そういうことがあったからか、
少し広げて考える切っ掛けになったかもしれません。