去年の1月、ブログ「日常×非日常」より
今回は記事本文も載せることにしました。
 
「怒りと赦し」(年頭所感に代えて) 傑作(1)
2011/1/11(火) 午後 4:53
 
記事本文:
 
 市川森一「米国への怒り抑え込むな」より
 
「明日」という題のテレビドラマを、昭和最後に書きました。長崎に原爆が投下される前日、1945年8月8日の庶民の暮らしを描いた作品です。
 戦時下とはいえ、家庭には団欒があり、母は子を産み、人々は夢を抱いていました。その日常を一瞬にして奪った不条理を許さない、という怒りを込めました。
 
 オレンジ色に染まった西の空、包帯でぐるぐる巻きにされて隣家に運び込まれた男性――。
 当時、諫早に暮らしていた4歳の私も、ぼんやりとあの日を記憶しています。
 鮮明なのは、戦後しばらく残っていた浦上天主堂の生々しい廃虚。
 のちにクリスチャンとなる少年の私に、そばを通るだけで悲しみとおそれを感じさせました。
 
 長崎には「原爆投下は神の試練」と受忍する考え方があります。キリスト教色の強い浦上地区が爆心だったためでしょう。しかし、結果として米国への批判を封じ、責任をうやむやにする役割を果たしてきたのではないでしょうか。
 
 米国内には、「原爆投下が戦争終結を早めた」という弁明が、今なお定説としてまかり通っています。
 なら、なぜ2発も続けて落としたのか。広島にはウラニウム型、長崎にはプルトニウム型と使い分けてもいます。
 その後の調査団派遣は何だったのか。米国の狙いの一つは新兵器の「実験」だったとしか思えません。
 
 原爆投下の出撃前、部隊に従軍していた聖職者は、作戦の成功を神に祈り、爆撃機の乗員に祝福をささげました。神や正義を振りかざして虐殺を正当化した米国と、「仕方ない」と怒りを抑え込んだ日本側の姿勢は、表裏の関係にあるのです。
 
 半世紀前、浦上天主堂の廃虚が撤去された背景にも、米国への配慮が働いたという見方があります。保存されていれば、原爆の罪深さを世界に伝える、もうひとつの「原爆ドーム」になっていたでしょう。
 オバマ米大統領が崩れ落ちた教会を目にしたら、赦しを請うたに違いないと思うと、残念です。
 
 いつか、天主堂を題材に戯曲を書こうと、資料を集め始めました。信者であり、長崎人である、私の宿題です。
 
(朝日新聞2010・11・5)
 
☆   ☆   ☆
 
 
 正直に告白すれば、昔の私はこの手の論調に対してあまり同意できなかった。大学に入った頃、このような内容の講演を聴いたことがあったが、そのときもあまり同調も同情もできず、むしろ「なぜこの人はこんなに怒っているのか」「怒りというマイナスの感情は早く忘れてしまった方がいいのではないか」などと考えていた。
 今はそのように考えていた自分を心から恥ずかしく思う。
 
 怒りを抑え込むこと。これは怒りを克服して赦すこととは、まったく別のことだ。
 怒りをなかったことにしてしまう。しかし、怒りは自然になくなるものではない。それは抑えられれば抑えられるほど、歪んだ形で表面に出てくるのだ。
 自分には怒りがあるということをまず認めなくてはいけない。そしてそれを表明しなければいけない。その上で、相手を赦さなければいけないのだ。
 
 怒りを抑え込んでいたら、永遠に相手を赦すことはできない。
 記憶の彼方に消えていくように思えても、それは必ず残っているものだ。
 
 「主よ、わが兄弟われに対して罪を犯さば、幾たび赦すべきか、七度までか」
 「否、われ『七度まで』とは言はず、『七度を七十倍するまで』と言ふなり」
 (マタイ18:21-22)
 
たしかに私たちは「他人の罪を赦さなければいけない」。
 しかし、ここにも、キリスト教の間違った解釈がある。
 赦すというのは、怒りを抑え込むことではない。怒りを表明した上で和解することである。
 私たちは「抑えられた怒り」を「赦し」と思い違いしているのではないか。
 そういう思い違いがあるなら、神が私の罪を赦したということの深い意味を悟ることもできないだろう。
 神は怒りを抑え込んだのか?
 否。
 もし抑え込めるような怒りなら、それは本当の怒りではないだろう。
 
 かくいう私も、その怒りの深さをよく分かっていない。
 だから、私もまた、自分の怒りをあっさりと抑え込んでしまうのかもしれない。怒るべきときに、怒れないのかもしれない。
 そういう私の態度が多くの歪みを生んでいることには、ようやく気づけるようになってきたのだが、そこから一歩踏み出すところまでは行けていない。
 
 怒りと赦し。
 これが今年の私のテーマである。
 
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 コメント
 
相手が認めてもいない罪を赦すということがあるのでしょうか。
例えば「自分が何をしているか分からないでいるのです」は
キリスト・神だから言える言葉のような気がします。
人が言うと、陰険な皮肉~敵意の表明のような気もします。
それに人はしばしば自分が何をしているか分からないですし・・・
2011/1/13(木) 午後 1:56[ st5402jp ]
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※補足:上の4行目「人が言うと」は
人が相手の人のことを、聖書の言葉ですが、
「(相手は)自分が何をしているか分からないでいるのです」
と言うと陰険な皮肉になってしまうという意味です。
 
上の例で言うと、米国は原爆に罪意識をもっていないということでしょうか?その場合だと、やはり罪意識を持たせるために、被害者が怒りを爆発させる必要がありますね。それをうやむやにしてしまったのは日本側の責任ということになります。
2011/1/13(木) 午後 10:33
 
おやまあ、というか・・・爆発ですか・・・
それで米国が罪意識を持つかどうか・・・?
米国の原爆投下の話になると、難しい問題になります。
日本側がそれを持ち出すと、向こうは真珠湾奇襲を持ち出すでしょう。
戦争を仕掛けたのはどっちだという話にもなるでしょう。
引用記事のように
仮にオバマ大統領が原爆について謝罪することがあったら、
日本は真珠湾奇襲について謝罪すべきでしょう。
原爆と通常兵器、無差別殺戮と軍艦が標的
という決定的な違いはあっても、
即レスで無条件で日本も謝罪すべきだと思います。
そうしないと話し合える器を疑われそうな気がします。
話が逸れました。失礼。
2011/1/14(金) 午前 6:32[ st5402jp ]
 
テレビで
原爆投下の爆撃機に乗っていた退役軍人に被爆者が
謝罪を要求したけれど退役軍人は拒否したというのがありました。
「それが戦争だ。仕方ない」とか言っていました。
そういう戦争の不可抗力の弁明が成り立たなくなったのが
広島・長崎以降の時代ではないかと私は思っています。
個人レベルでは米国でも原爆の被害を知って、
日本に対するというか、人類に対する罪意識を持つ人は
少なくないとは思いますが。
2011/1/14(金) 午前 6:35[ st5402jp ]
 
日本には、米国の原爆投下だけでなく、
日韓併合から太平洋戦争までの戦争をうやむやにしている、
しようとしている、正当化さえしようとしている動きが
あるかも・・・また話が逸れてゆくようです。
核兵器や戦争や国家については私のブログの
「理念・断片」に乏しい知識から少しばかり書いてますが、
それはともかく
「怒りを爆発させる」なら、自国に対しても厳しく同様に
怒るべきでしょう。
2011/1/14(金) 午前 6:36[ st5402jp ]
 
話しをこの記事のテーマに戻すと、
V様は「罪を赦す」ということについて
>赦すというのは、怒りを抑え込むことではない。
>怒りを表明した上で和解することである
怒ったままで和解することは困難だと思うので、
怒りという感情を抑制する過程は必要だと思います。
自然に治まる怒りがあるような?ないような?よく分かりませんが、
いつになく、V様においては、「怒り」と後の「憎しみ」
という陰性の感情を大切にしておられるように感じます。
「怒りからは何も良いものは生まれない」の対立命題?
2011/1/14(金) 午前 6:38[ st5402jp ]
 
昔習った、新渡戸稲造だったか、
「忘れることは出来ない。しかし赦すことは出来る」
という言葉を思い出しました。
私は「罪を赦す」ということは「罪を忘れる」ことではなく
「罪びとを罪のゆえに罰することをしない」ことだと
思ってきました。「和解」という言葉もよく使われるので、
それとも矛盾はしないだろうと・・・。
怒りの感情を持って、なお赦すことができる、とは・・・?
 
私としては感情そのものを大切にするというよりは、
そういう感情を持っている自己と他者を無視するな
という意味に受け取りたいです。ということは
それらをモニターし、結局はコントロールする知恵・
心・思考・意思・意志があって
初めて和解が可能になると思います。
2011/1/14(金) 午前 6:41[ st5402jp ]
 
ふむ、なるほど、おっしゃるとおりだと思います。
日米関係についていえば、たしかに日本人はただ米国に怒りを爆発させるだけでは不十分でしょう。日本人のしてきたことにも目を向けなければいけない(もちろん真珠湾攻撃だけではないですよね)。しかし、これまでの日本はその両方を怠ってきた。というより、自分たちにも疚しいところがあるから、相手に怒りを表明することも避けてきたのではないかと思います。おっしゃるとおり、怒りを爆発させれば、そういうお前だって!と反撃されるのは明らかだからです。しかし、その反撃を避けるために怒ることをやめるのは卑怯だと思うのです。怒りをぶつけて、相手もまた怒りをぶつけてくる。そこで初めてお互いが反省する機会も生まれてくる。市川氏の話には、そういう機会を失ってしまったことへの怒りがあるのだと思います。
2011/1/14(金) 午前 11:47
 
怒りをコントロールするというのは、怒りを無理に抑えることではなく、怒りの原因について理性的に考えていくことで可能になるのでしょう。これもおっしゃるとおりだと思います。日米の対話というのも、その一つの手段だと思います。まず怒りがある。それをお互いに認めた上で、ではその怒りをどのように処理していくかを対話しながら考えていく。これがあるべき人間関係なのでしょう。
 
なんて、偉そうに言っていますが、私自身、そういう人間関係が苦手なので、いつものように自戒を込めての話です。そういう自分が卑怯だというのはよく分かっています(苦笑)。
2011/1/14(金) 午前 11:51
 
(2012年01月20日)
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私も人間関係は苦手なので偉そうなことは言えませんが、
考えることは必要だし、私が長崎出身ということもあり、
前の前の記事との関連で載せることにしました。
st5402jp が、私のコメントです。
一部できるだけ誤解を避けたいので補足を加えました。