絶望の中で
希望は絶望からしか生まれない
希望は常に絶望と共にしかありえない
絶望を伴わないとき
願うことは欲望に過ぎないだろう
欲望が必ずしも悪いということではない
生きる欲望は必要だし
それによって目標も生まれるからだ
何も出来ない絶望のとき
生きることが
今のこのとき誰のためにもならず
この先も誰のためにもならない
生きてきたすべての一瞬一瞬が無駄であり
生まれてきたこと自体が無駄だ
でも生まれ
生きてしまった
他者のために
守り導いてください
と祈ることすらも出来ないとき
自分について祈るとき
殺してください・・と
死ぬ勇気がない自分を恥じている
恥を晒してでも天寿を全うするまで
意味などなく生きることが必要なのだろうか
それは自分によって実感として是とされることはなく
もし生き続けるとすれば
支えるのは絶望と無力だろう
希望は人が作って持つものではなく
絶望から同時に生まれてしまうものだからである
ぼうっとしながらも
ゆっくり動き
何か用事のようなことを
ぼうっとしたまま行うことがある
取るに足らないことのようでもあるが
絶望の中で
人を生かし生きるほうへ
動かしているのは希望である
動けない人が
手か足かを1ミリでも動かしたならば
それは希望の表出である
だから自殺は止めるべきなのだ
(2012年02月20日)
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「死にたい」は「生きたい」の裏返しと言われ、
私も似たようなことを書いたことがあります。
それは大きく変わってはいませんが、
絶望の実感が増幅してきているようです。
心身ともに欠陥を持つ年寄りの息子が
さらに老いた入院中の母を支えなければならない今の状況で
私が最も避けたい事態は
母が生きて私の自殺死体を見ることです。
だからもし母が死んだら
その後の私にとって
生きる意味はもはや何もなくなると思ってしまうのだが、
私がどうなるか、生きる必要が今まであったのだろうか、
これからもあるのだろうか、
何も分からないまま、今はまだ生きている。
しばらくは死ぬ勇気がないことを恥じながら、
それに救われ、それに傷みながら・・・
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