矛盾の信仰
 
 
神は人知を超えた御方だから
神は人知を超えた奇跡を起こされるのだと
なぜか神の奇跡とその意味を得々として語る人がいる
 
神は人知を超えているのに
なぜ神の奇跡を人知が説明できるというのか
そのような説明は不可であり
それが確信ならば
その確信は信仰ではない
 
人は考える動物であるから
素人でも分かるはずなのに
しばしば人は自らの確信を信仰として語る
 
聖書は人の解釈を通さずに読まれることはなく
人は聖書の言葉を人の言葉として生かす思慮が必要なのに
しばしば聖書を解釈した自分の言葉を
神の言葉として語ることで満足してしまう
 
神を信じようとすればするほど
ますます神は理想化された偶像として人に作られてゆく
このように
信仰は原初において既に矛盾しているのに
矛盾を省みず
神について聖書について
誤解や間違いや思い込みの可能性を考えず
確信として押し通せば
もはや信仰ではない
 
矛盾の原罪は避けることが出来ない
それが
「信じる神はどこにもいない」
「信仰はない」
また「聖書は人の言葉」の理由であり
矛盾は信ずるに値しないなら
「信仰は捨てたほうがよい」の理由でもある
しかし同時に
「祈るしかない」の理由でもある
 
動物よりも増しな思慮を持って
矛盾があることを認めても
祈ることをやめられないならば
それが理屈抜きの信仰であり
尾ひれの付かない信仰であり
原初から変わることのない信仰である
 
神が人知を超えた御方というのは
人知を超えている神を確信することではなく
神を思えば思うほど
神について確信を持って語ることは出来ないということだ
 
神の立場はもちろん人にはなく
人の立場においても
達し得たとき既に足元は崩れつつあるという常態
ゆえに
信仰の言動において
柔和でバランスの取れた「敬虔なクリスチャン」は
社会通念のイメージに過ぎず
神を信じる正しいクリスチャンは一人もいない
 
神を恐れる人は
矛盾の信仰に身を置いている自らを知る人であり
それでも離れられない信仰について謙虚でしかありえないが
うわべだけ「神への畏れ」を語る者は多くても
神への恐れを知る人は極めて少なく
大方は孤立しており
さらに倒れており這っており狂っており
ときに悲鳴のように呼ばわるが
その声を聞く者が殆どいないという現実に返され
うちのめされている
 
(2012年03月23日)
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人からの白眼の視野に生きて雪
 
雪の季節は過ぎたようですが、
身を切るような寒い風に吹かれて凍り付いている心地で、
私が生きてゆく日々は短く
私が生きて逝く時は近いのかもしれません。
 
入院中の母のために何も出来ないでいる自分が嫌になります。
造られた意味を神に問うても答えはなく・・
それでも生きている間は祈ることをやめられずにいますが、
それが唯一の安らぎに近いひとときでもあるのですが、
 
先日「わかったね!」を繰り返されて
母と口喧嘩みたいになって「切るよ!」で
電話を切ってしまって、それから電話もないから
母は悲しんでいるかもしれないのに
独りの家でピザのデリバリーばかり頼んで食って、
昨夜眠れず、なぜか今朝になって唐突に思い立って
ブログの記事を書いている・・おかしいなぁ・・
 
反りが合わず、耳も遠くて
コミュニケーションも取れないとはいえ
母がいることだし、自殺する勇気も今のところなくて・・
目処の立たない暮らしの中で、つくづく
常に私の生活には自己中心が付きまとい、
私の信仰にはどうしても神義(神の正しさ)の問題と
ルサンチマン(負け犬根性)が付きまとうものだ
と痛感しています。
死ねないものだから、せめて
自分の内部と来し方を斬って見たいと言う衝動だろうか
・・ぷっつん・・なのか・・?
長々と愚痴、失礼いたしました。
 
(2012年03月27日、一部修正)