実在と幻、その後
 
 
哲学には疎いけれど
「我思う故に我あり」→我以外の実在は?という疑問について
信仰によって克服したつもりでいたことがある
 
その後
 
秩序だった恒常性と連続性を持つ
と主観的に考えられる双方向反応系の世界においては
幻だとしても
生きているかぎり思いも行いも
実在と何ら変わりがない
ゆえに
この世のものと他者は実在すると考えられる
というようなことを前に書いた
(以上をAとする)
 
その後
 
しかしこれは
この世界に適応しているか
適応可能または適応することを目指している
と思える主観からのみ言えることだ
 
この世界に不適応
または適応不可能か
適応について絶望的と思う主観からは
Aと意味としては逆の
「この世のすべてのものと他者の実在は幻と同値」
が成り立つことになってしまう
その場合、主観は
双方向反応の欠乏の止むなきを経て
凄まじい疎隔と孤独と離人に襲われる
 
結局やはり何らかの信仰
例えば個人的にだが
絶対者としての神への
無条件で不可避な服従を受け入れることのみが
唯一の救いになるとしか言いようがない
 
これは決して運命や
この世のものや他者に服従することではない
 
何のことはなく
言い古された「人事を尽くして天命を待つ」
と同じようなものだろうか
 
心は重たくて重たくてやりきれないのに
肉体は弱く
思索は浅くてやりきれないのだ
 
その意志と行為を人が決して知ることのない絶対的秩序に
最終的には生死を含めて
委ねるしかないということなのだろうか
 
しかし人が教える「聖なる安らぎ」を繰り返し暗誦する無思考は嫌だ
 
そして「この世は夢と幻」
「人生はゲーム、失敗したらゲームオーバー(リセットは出来ないのに)」
なんて生き方(死に方)は嫌だ
 
(2012年11月14日)
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昔書いたこと:
「信ずるに足るものなど何もない世にあっても
 信じなければ生きてはゆけまい」
「強烈なる厭世をもってなお
 烈烈とこの世を愛さねばならぬ」
 
・・相変わらず私は侘しく乏しく虚しい明け暮れです・・
つながりを求めたい気持ちがないわけではありませんが
信仰やそれ以外のことについても多くのつながりに
うんざりしてきたのですから今さら今以上のというわけにも・・
しかしつながりの中でしか人は人間たり得ないから
・・また気が向いたら考えてみることにします・・
 
 
少し補足したいと思います。
独り言みたいになりますが、・・私が
この世界に不適応と感じてくると
世界が無秩序にしか思えなくなってきます。
そうすると病める私の心の中も無秩序になってきて
疎隔、孤独、離人 → 支離滅裂になってくるのを感じます。
この支離滅裂な無秩序に歯止めをかけるために
理性的であれ、情緒的であれ、何であれ、
神が存在するか・・などという問題にかかわらず、
私という人間には信仰が必要だと、現時点では、
考えているということなのでしょう。
それで少しでも慰めや安定が得られるなら
人から教えられる「聖なる信仰」などと違って、
たとい私の信仰が今までの記事に書いてきたような
偶像信仰やイメージ信仰という原罪であっても、
そしてそのことを恐れ、恥じ入り、戒めを感じながらも、
私にとって信仰は忘れられないもの
捨てることの出来ない拠りどころになってきた
という個人的な経緯があるのだと思います。
そこには私には理解できない必然というか、
縁とでも言うべきものを感じます。
声高に語れる確信など何もないのです。
こういうことはクリスチャンでも共感してくれる人は
殆どいないのが現実のようですが・・
(同日、補足追加修正)