信仰と確信
 
 
信仰と確信は対立軸である。
信仰の反面教師が確信である。
 
信仰は仰ぎ
確信は見下ろす。
 
確信は信条や信念と似るが、
人が神の意思と行為についての
疑問と不都合から目を逸らして無視し
自己においても他者に対しても
それらを排除してゆく。
確信は詰まるところ自分信仰なのだ。
 
信仰に信条はない。
信仰は疑問を排除しない。
目を見張ることはあるし、
瞬きはするが、
わざと目をつぶったりはしない。
 
信仰は信じるところを知らない。
確信は信じることの罪を知らない。
 
信仰は信仰者にとって不可避であり、
よってきたるところを知ることが出来ない。
確信は人の業であるのに
由来を聖書と神に帰して
人ならぬ者になりたがる。
 
信仰は文章化しにくく
経験の情緒と思考によっても
伝わるとは限らない。
確信は文章化しやすく
明文化することによって
伝染されることをむしろ目的とする。
 
信仰は信仰の罪深さを自覚し
しばしば痛感するが、
確信は確信の罪深さを
自覚しないから確信なのである。
 
信仰だけでなく確信も「信仰」と呼ばれることが多い。
信仰は「信仰」と呼ぶことに不全感と
恥ずかしさを伴うが、
確信は確信であるから
堂々と「信仰」と名乗るだけでなく、
信仰に対しては「ふっ、何を言っとる」と小馬鹿にしながら、
ときには敬虔を装って慇懃無礼な態度で
押さえ付けてさえ来るだろう。
 
信仰は心を揺さぶり
安定を許さないだろう。
確信は安定を求め
不動を誇ることになる。
 
信仰は恐らく確信を否定することによって、
ようやくその一部を暗示のように表現するのみだろう。
 
なお信仰と確信は
罪深さによって
同居していることもあり得る。
内部にも対立軸があるということだ。
 
確信は常に
信仰を覆い隠して表され
人前で明らかと見られることを好む。
 
信仰は常に
確信を打ち砕かれるところに
ひっそりと生まれるだろう。
 
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20代の頃と今とで私の信仰を比べてみると
変わらないところと変わったところがあるように思われます。
そのどちらにも信仰とは別のものが含まれていると思います。
溺れる者が藁(わら)をつかめば、藁は曲がるからです。
しかも曲がった藁は自分の持ち物になるからです。
 
(2013年02月26日、同日一部修正)