ブログ「随山・不思議の時代」より
http://blogs.yahoo.co.jp/lovewoosjapan/38410295.html
作者は、哲学者、仏教寄りか?と思われます。
チベット旅行の記事のようです。
 
私はクリスチャンのつもりなので、
仏教系の記事を題材にするのは珍しいのですが・・
 
チベットの大自然の中で暮らしている人々の話でした。
美しい自然の写真付きです。
あの環境で私が生きられるかは別として・・(嘆)
 
心に残ったのは、特に
 
「神に祈ることによってのみ
 自分の存在を確かめながら生きているのです」
 
という一文でした。
もちろんこの神はキリスト教の神ではありません。
しかし心を打たれるものがありました。
 
祈ることで神の存在を確信して、云々・・
だったら、キリスト教でも、うんざりするほど
ありそうな文句ですが、
私はむしろ反感を覚えるでしょう。
 
上記ブログの趣旨と一致するかどうかは分かりませんが、
 
神に祈ることで確かめられるのは、
神に祈っている自分の存在だけなのです。
 
理屈を言えば
神と人がいるから
神との関係で
祈っている自分の存在が確かめられる。
それが信仰だ
などということを言う人もいるかもしれない。
しかし
祈りの場にいるのは自分だけなのです。
 
そういう祈りを日常的に実践して、
それで満たされるものを
日々受け取っている人々がいるのです。
 
推測になりますが、
神の存在や概念について
チベットの自然の中で生きている人々は
ああだこうだと理屈をこねたりはしていないでしょう。
神の姿をあれこれと思い描くこともないでしょう。
神の概念も理屈も姿も必要ないのです。
祈ることがすべてであり、それで十分だからでしょう。
 
便利だが込み入った文明の中に住んでいるキリスト教徒の世界では、
神について確信しないと安心できないようです。
はっきりしないと気が済まないようです。
 
神のことは神に。人は人を語り、
祈る姿にこそ信仰があることを
教えてもらったような気持ちです。
 
「神に祈ることによってのみ
 自分の存在を確かめながら生きているのです」
 
(2013年03月15日)
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(自覚してない誤解に基づく補足ですが・・)
 
前にも書きましたが、
ここにいると知っていて考える自分という意識がある。
ゆえに自分は存在する。
これは否定できないけれど自己に完結しやすく、
他者については
幻想←→実在になりかねない論理です。
 
一方
どこに向けているとも知らぬまま
祈ることによって自分の存在を確かめる。
(神の存在ではない)
ここに論理はなく、
感謝の祈りでも、悲嘆の祈りでも、
そうする以外に何も持たない
という胸いっぱいに満たされた、不可避で、
自己完結ではなく、自己解放への真実があります。
そしてここには
ふるえる心で恐る恐る生きるしかない人でさえ
祈りに生きる存在に変える希望を感じます。
 
甚だ不十分でした。失礼。
 
(2013年03月16日、補足?)