前の「アダムとエバの罪」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/15102526.html
では
因果関係みたいなものに、
また自由意思による選択か
必然かということに、
こだわったような感じで書いたけれど・・
 
 
 
アダムとエバの罪(2)
 
 
旧約聖書を書いた著者たちは、
その時代の人の有様と罪を経験して、
神を信じるしかなく、
その必然から、逆に、
罪の起源を人類の起源に求めざるを得なかったのです。
 
新約聖書を書いた著者たちは、
キリストの時代の人の有様と罪を経験して、
キリストを信じるしかなく、
その必然から、逆に、
旧約から罪の起源を求めざるを得なかったのです。
 
書かれたものは著者たちにとって
それぞれの時代の
今の人間の罪なのです。
 
しかるに今の私たちは
アダムとエバの罪があって、
ゆえに楽園追放があって、
ゆえに、こうなって、ああなって・・と
過去のほうから読み、
因果や必然を考えてしまう。
 
そうではないのです。
アダムとエバから・・ではないのです。
 
今の自分にとって、
今の罪があり、
キリストを信じる不可避な必然があるのであって、
 
過去に必然があるのではなく、
過去ではなく、
考え方が信じ方が
 
・・逆なのです・・
 
 
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この記事は
人に自由意思があるかないかという問題からは
少し離れて書いていますが、
敢えて言うなら、やはり自由意思はないように思います。
未来を知りえないことを以って便宜的に
「自由意思」と呼んでいるような気がします。
 
 
(2013年06月01日)