正誤
 
 
何らかの正しさを
本当に理解したと感じるときには、
「なるほど」~「ああ」
という感動によって
世界が広がるような解放感を伴い、
それが更なる課題へと導いてくれる。
理解は論理だけでなく
感性によって人を解放する動態だ。
 
そうでない場合、
「ふ~ん」
という曖昧で広がらない気分を催すか、
または
辻褄合わせに過ぎなくなって
「うん」「うむ」「よし」
という小さな気合いによる独り納得か
自己満足に過ぎなくなる。
 
神についてはもちろん
人についても
人が述べる意見の正誤は相対的な動態だ。
 
動態なのだから、
不動ではなく
可変であり
相対的なのだから、
誤謬を常に内包している可能性を
わきまえておく必要がある。
 
したがって
様々ある人の意見の中でも
明らかに誤りと言えるのは
誤りの可能性と
変わりうる可能性を自覚しないことだ。
 
良いものを求めることは大切だが、
それ以上に、むしろ、
誤りや偽りや邪を見出すことのほうが、
より正しさや真実に近づけるのかもしれない。
 
人に完璧はないのだから
特に人が不変の絶対的確信を語るとき、
それは既に間違っている。
 
 
 
思う
 
 
「と思う」は
書いても書かなくても
あらゆる人の意見に必ず付いてくるもので、
可能性から推測から
強い主張から断定から
さらには絶対的確信までを
意味してしまう危うさを持っている。
 
発言の文脈と語調などで判断せざるを得ないのだが、
「絶対・・・と思う」という言い方もあるくらいだ。
 
ただでさえ、ひとときでも、
人が無謬性を所有することは困難であるのに、
人が人を超えたものについて
確信を持って断定することなど
出来るはずはないのだから
 
神と信仰についての
人の断定や確信は、
それだけで間違っていると言わざるを得ないのだが、
残念なことに
大方は誤謬も不遜も
自覚されずに語られている。
 
何を教え込まれてきたのか、
まるで確信することが信仰であるかのように。
 
 
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誤りの可能性を自覚しないことは誤り
というのは断定だから、これも誤りだ
ということを考えると、
2行目は1行目を受けており
自覚することも自覚しないことも誤り
または正しいということになり成り立たず、
結局、詭弁と言うべきでしょう。
・・ という感じで ・・
めんどくさいことを考えているうちに
私のような素人は迷路に陥りがちです。
 
昨夜から徹夜ですし、怒りから嘆きの
書きたい発作がなかなか治まりません。
まだ「信仰」と呼ばれているものについて
書かれているものを読んだりすると再燃して
怒り嘆き続けているようです。さすがに
疲れるのでそろそろ休みたいと思うのです。
そのうち唐突に途絶するだろう
とは思いますけど・・頭少し痛い(呻・嘆)
 
(2013年06月12日)