異種
 
 
人が人であること自体が
人が人と呼ばれていること自体が
人間同士だと思っていることが
悲劇であるのかもしれない。
 
近づいた同士が離れてゆくのが残念なのではなく
元々別々で
近づいてなどいなかったのかもしれない。
近づくことなどないのかもしれない。
 
散乱したベクトルにも共有できるものがあるのだろう
と期待もしてきたが
ベクトルの本質そのものが人によって違っていて
共有も共通もなく
交流は
似たような図式的表層において
行われているに過ぎないのかもしれない。
 
性格の違いがあり
考え方や感じ方も違うからと
これを個性と呼んではいるが
あまりに話が合わないのは
どう言ってもどう聞いても分からないのは
同じ人間とさえ思えないことがあるのは
また分かったように見えてもやっぱり違うのは
ひょっとして根っこから違うからではないか。
 
人と人は互いに人間同士というのではなく
異種ではないのか。
一人を人と呼ぶなら他はそれぞれ
別の名で呼ぶべき存在ではないのか。
 
例えば人と犬、人と猫、などと
人と人は基本的に同じではないのか。
 
異種間でも共通しているのは
相手が自分の脅威になるかならないかを感じ取って
距離を決めていることだろう。
犬や猫は人に対して賢いのに
人は人に対して下手くそだ。
 
人と人は言語があるから
その一見明確に見えるものによって通じ合っている
と思い込んでいるだけではないのか。
 
知性らしきものの共通性を疑わず
同種であるかのように
分かり合えるかのように
振る舞ってはいる「人と人」
 
注意しないと
「一人」は「一人」に
ある時ある所で根こそぎ
とんでもない存在の恐怖を与えてしまってはいないだろうか。
 
 
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これは経験と推測による疑問に過ぎず、
断定ではありません。
離人感でメチャクチャになっております。(嘆)
 
(2013年06月14日)