表現の罪
 
 
信仰者であることが先ず罪です。
信仰を伝えようとすることは罪です。
それは一つの表現です。
 
信仰を表現しようとすることは罪です。
 
さらに
信仰を実践しようとすることは罪です。
これも一つの表現です。
 
そしてそれらは
理想の思い込みという偶像信仰を伴います。
 
罪でないものが何かあるでしょうか。
あるなら、どうやって確認するのでしょう。
 
罪でないもの、正しいものが、
求められるべきという当為が、
あるいは求め得るという根拠が
人の知りうる何処かにあるのでしょうか。
 
私はそのような当為も根拠も成り立たないと思っています。
罪があるから救いが必要なのですから、
罪がないことを求めるよりも、よほど大切なのは、
罪があることを自覚することだと思っています。
 
自覚とは、罪を知ることではありません。
罪を知るなら、正しさ(罪がないこと)も知ることになるけど、
それは不可能だと思います。人は正しさを知りえません。
 
以上より、自覚さえも、
うっかりすると見失いがちなのです。
 
求めるべきは正しさではなく、
自己賛美や自己陶酔、等々の、
偽物や悪などの、その都度の罪の自覚なのです。
それはその都度の正しさに近いけれど、
その都度、霧散してゆくような儚いものです。
 
言語化できないものについて
言語的表現は結局、無力です。
 
非言語的表現は衝撃は与えるけれど、
言語以上に捉えがたいものですから、
人が生きているという信仰に
一対一の対応は望めません。
 
つまり詩や芸術や祈りの言葉に感動することはあっても、
神に関わる信仰の表現に至ることは出来ません。
 
それは不条理であり、それは現実世界の不条理よりも、
はるかに根源的な不条理だと言えるでしょう。
 
それらの表現は、信仰とは明らかに断絶しています。
か細い手段であり手がかりであり、
移行という関係付けも体系化もありません。
 
では何ゆえ表現するかと言われれば、
その都度の罪の自覚に近づきたいからだと思います。
 
近づけるかどうかは確かめようもないので、
近づきたいからという理由による必要悪だと思っています。
 
そしてその度に罪の自覚が深くなるためだと思います。
実際、その度に不全感と虚脱感に陥ることで、
罪の自覚は深くならざるを得ないからです。
(不全感がなく、満足感から万能感に至る思考は論外です)
 
信仰についてのメッセージに何らかの意味があるとすれば、
まさに以上に述べたような、
決して満足感ではなく、
不全感に気づくためだと思っています。
 
テーマがあまりに大きく重いために
語調が強くなっているのを自覚します。
断定的表現は叫びだと思っていただければ幸いです。
そしてまた私は虚脱するでしょう。
 
罪を自覚するから信仰が必要なのであって、
正しい信仰があるから罪を自覚するのではないのです。
 
 
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他のブログに書いたコメントを元に記事にしています。
補足として、
人(の命)を助けることは正しいことです。
それは人のレベルで正しいことですから
信仰がどうのこうのと考える必要もないでしょう。
しかし助けた人が責任を持って
助けられた人の面倒を一生見ることは不可能です。
そこには勘違いや思い込みが入り込んでくるでしょう。
何らかの失敗もあるかもしれません。
したがって信仰者にとっては
罪が全くないという状況はないと思います。
それでも助けなくてよいということには決してなりません。
助けるべきであり、それは正しいけれど、
助けても助けられても信仰者なら
罪の自覚から離れることは出来ないはずです。
そのことを知るための献身ということになるのではないでしょうか。
 
(2013年06月20日)