「地獄論」
(仮定の話なので私の嫌いな「論」を付けます。
 天国については不可能と言いたいほど想像できないのに、
 地獄については色々様々想像が可能のようです。)
 
 
この世で悪いことをしたから地獄に落ちるのではなくて
 
前世か楽園か知らないが、
すでに悪いことをしたからこの世に生まれたのではないか。
 
つまり、この世の後ではなく、
この世こそが地獄ではないのか。
 
そうすると、神様がいても、
罰を受けるために生まれたこの世の人々に対して
厳しいことが起こるのは当然であり、
 
いかなる天災や人災による理不尽や不条理や不幸も
そういう世界ならば、
神義(神様の正しさ)に矛盾することもなく、
救いも自由意思もなく滅びたとしても
何の疑問もないということになる。
 
失楽園も、空の空も、キリストの生涯も、
この世が地獄であることを婉曲的に表しているのかもしれない。
 
だから福音というのは、皮肉なことに、
人の罪性による最悪の訪れとして
この世とそこに生まれる人に否応もなく帰結するのだろう。
 
教義的に語られる「救い」は、
セメントのように我執の強い者たちによる自己正当化に過ぎない。
 
すべては必然であり、
神義に即して整然と行われる処刑に他ならない。
・・としたら、どうだろう・・
 
生きる希望も意欲も失われて、死んでしまうだろうか。
 
たとい、この世が地獄であってもなくても、
生きる意欲は、有る人には有り、乏しい人には乏しいのだが、
全然ないということはあまりなくて、
条件付きだが、
その低い条件が満たされれば、やっぱり、
死ぬのが大好きという人はいないだろうと思う。
 
問題となるのは崖っぷち?にいる人たちだろう。
 
地獄だからとか、空しいとか、
悪いことしたから裁かれるためにこの世にいる
なんて言われても、
 
人間は病気でなくても、
あるときどこかが鈍麻していて、
ぴんと来ないことがある。
 
病気の人だって、・・
「大丈夫です。幻覚妄想は時々しかありません。」
「元気ですよ。時々胸が張り裂けるような後悔に襲われますが・・」
(例えばの話のフィクションですが)
誰かに「君は詩を書くのが好きなんだろう。このきれいな風景を
ポエムにしてみたら?」
期待されたのが少し嬉しくて
空に向かって手を広げ、口を開けて・・
・・(そのまま)・・
隣の人が「花鳥風月、苦手じゃなかった?」
「うん・・なぁあんも出てこん」
といった感じで・・私のことなんだけど・・
 
神様が殺すなら、よっぽど悪いことしたんだろう。
神様じゃ逆らいようもないから、
あぃ、じゃ、殺して・・という裸の心
 
今日食べるものがあれば今日生きる
という・・一日単位で生きているのさ。
 
からっと・・した気持ちで生きて
時が来たら死んで・・むむむ・・
 
・・途絶したので、この辺で。
 
 
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(補足・・)
キリストによる救いを定式化して
いつでもどこでも
こう言えば伝わるかのように
こう言わなければ伝わらないかのように覚えて
自由な仮定や想像をしなくなるのは
教義がもたらす思考停止の一典型であり
生きた信仰を動かない偶像に変えてしまうことだと思います。
それを譬えて「セメント」と形容しました。
 
 
(2013年11月01日、同日加筆若干修正)