「神の導き?」
「すべては神の御導きですから・・?」
こうして神の名を冠すれば
幸にあっては思い上がり
不幸にあっては無抵抗の弱者の道徳
すべての出来事に恐ろしいほどの
こじつけの合理化の
「神」をあてがうことになるでしょう
「あるとき神の御旨だと確信することがあるでしょう・・?」
この私ごときが神の御旨を知る?
どうやって私なんぞが?
と考えてみたりはしないのでしょうか
確信する前に・・
「聖書を勉強すれば分かります・・?」
聖書の勉強は人の解釈と
自分の体験からの解釈で出来ている
とは考えてもみないのでしょうか
人の自分の
解釈を絶対化していることに気づかないのでしょうか
驚いたことに
決して聖ではない人が
信仰は神の賜物であって
自分の持ち物ではないと言いながら
実は自分の解釈を聖とし神格化しているのです
信仰は神の賜物ですが
だからこそ人は敬虔を旨とするなら
人知の及ばないところを
あたかも分かったかのように信仰や神に
あてがうことだけはしてはならない
それが神を恐れることではないでしょうか
神の心と行いを知り得ない人にとって
首を傾げて考え悩み
行動しては悔い
赦しを祈るために生涯にわたって
信仰は答えではなく
問いなのです
(2013年11月19日)
※ 神への恐れを
畏れと言い換えて満足する愚は避けましょう。
自己満足していなければ、
書き癖の習慣だし、好みの問題として、
どちらでもいいようなものかもしれません。
「恐れ」と「畏れ」・・漢字の語源を見ると
畏れには鬼、恐れには心と工具のノミ?とか書いてあり
私には分からなくなります。
それよりも、日常語として用いるときに
恐れは恐怖を連想しますが、
畏れは畏敬、敬うべき、また畏(かしこ)まるを連想します。
神への恐れを、畏れと書く心には、
神は恐怖ではない。父であるから畏まって敬うべき
という思いがあるから、畏れを選択するのが当然で
それで事足りたように思ってしまうのが嫌なのです。
私にとって
神は予想通りにも期待通りにも導くとは限らないから、
生半可な恐れではありません。
神は恐怖であります。
仰いで祈っても
お近づきにはなりたくないのであります。
人は悪魔と神を区別できるわけではないと思います。
また人はこの世の完全な悪も善も見分けられません。
気安い理屈で、恐ろしい神を
「恐ろしい」から除外してしまうことが私には出来ないのです。
人は、悪魔を恐れる以上に
神を恐れるべきです。
つまり恐れと畏れ、どちらを使ってもよいのですが、
「畏れ」を使うことで
神と悪魔を区別できたかのような、
神の恐ろしさが減ったかのような、
神に対して礼儀を守ったかのような意識があるのならば、
神の恐ろしさが減ったかのような、
神に対して礼儀を守ったかのような意識があるのならば、
そうして形を整えることで
信仰を少しでも整えたかのような気持ちになるのが嫌なのです。
信仰を少しでも整えたかのような気持ちになるのが嫌なのです。
むしろ逆に
神を本気で恐れてはいないように思えてしまうのです。
(2013年11月22日、加筆修正)
(2013年11月22日、加筆修正)
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