信仰の原罪(2)
神は畏敬できる存在ではない。
神は恐怖すべき存在である。
人にとって全知全能は恐ろしく耐え難い。
人がどんなに隠そうとしても、
すべての欠点、すべての醜さ、すべての罪を知り、
欠けることなく正しく裁くという御方を相手に、
それぞれの死活の命の終わりを覚悟するとき以外、
やさしい父に対するように歓談するなど
どうして人が想定できようか。
では人は何故
神を信仰するのだろう。
神は人の悪よりも悪魔よりも恐るべき存在である。
そこにのみ人が
他者と自らのあらゆる悪を超えて
神を信仰する理由があるのかもしれない。
しかし神の愛が人に及んだとしても
人が受けたとき既に移ろい霧散してゆくのに、
いったい誰が神の愛をここに留めましたと言えようか。
神を知り得ない絶望によってのみ
人は、おののき、ふるえながら、
かろうじて罪の一部を悔いることが出来るだろう。
厳めしい信仰は被害意識から他罰へと張り詰めて、
やさしい信仰は逃避へと流れてゆく世にあっては、
神を信じることの罪を知るところから出発しなければ、
人の語る信仰は騒がしいだけだ。
人が語る神秘と奇跡と神義と解釈にざわめく信仰
これら神の前に既に無力である人の業(わざ)が
人の前にも無力になるとき
恥知らずの確信は恥じらいの信仰に変わるだろう。
信仰の原罪を知るだけ・・のために・・
(2013年11月23日、同日一部修正)
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