無限の自覚
 
 
無自覚は思考を切り捨てるほどの鈍感さの事実であり、
自覚は切りのない無限の当為(「べき」の付くこと)である。
人間は、前者でありたくないとしても、
後者であることも不可能であり、
よって人は偏狭な偏屈(強意です)にしかなれない。
・・と一応書いてしまっておきます。
 
純粋でありたければ自覚すべき何かがあるとしても、
自覚→無自覚の自覚→無自覚の無自覚の自覚→・・(最善)
または→自覚の無自覚→自覚の無自覚の無自覚→・・(最悪)
となり
最善でも無限に続く当為に悩まされることになる。
 
どこかで誰もが切りのない当為を切り捨てている。
それは安易な無自覚であり、
ゆえに結局、偏狭で偏屈にならざるを得ない。
 
最も純粋な論理より成る数学において
無限が収束するなら有限になり
扱うことも計算することも可能になります・・無限級数、微積分など。
また無限が収束しなくても扱えることもあります・・集合など。
しかしそれでも無限を無限のまま数えることは出来ません。
 
したがって日常的思考において無限は手に負えません。
ぼんやりしたり憧れたりするのが精いっぱい・・
つまり答えはないので、
無限の問題に何らかの時々の収まりを付けるならば
論理的思考という知性のみならず
情緒的人間性としての感性によって
恥ずかしい
という心を失いたくない・・と思うのです。
 
この恥ずかしさは
「体裁や世間体の恥ずかしさ」ではなく、
むしろ反対の方向を持ち、
恥ずかしい存在でしかありえない自分を認めることになります。
 
偏狭で偏屈になっても
恥ずかしさを失いたくないと、
また恥ずかしいと感じるとき
常に人は自分に何かを問いかけており、
ゆえに、死に体の安定ではなく、
生きる不安定を求めているからです。
 
 
(2013年12月19日、同日若干修正)