この記事も聖書解釈が絡んでくるので苦手なのですが、
なんかおかしいと、昔から問題としてきたことだったので
書いてみます・・前にも書いたような気もしますが・・
 
 
  幼な子
 
 
「幼な子らをそのままにしておきなさい。
 わたしのところに来るのをとめてはならない。
 天国はこのような者の国である。」
(マタイ19章14節)
 
「幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、
 そこにはいることは決してできない」
(ルカ18章17節)
(マルコ10章15節も)
 
(※ 「おさなご」は「幼子」と書くのが
 今は一般的なようです。ここでは
 私が親しんできた口語訳聖書の文言としては
 「幼な子」を慣用として使っています。)
 
この幼子の譬えは
聖書の中でも有名な箇所なので
よく引用されます。
 
キリストが相手なら
幼子のままでよいでしょう。
しかし相手が
ただの人間ならそうはいきません。
 
信徒の在り方の理想として上の聖句を引用して
「幼な子」を持ち出す者に注意してください。
 
教えたことをそのまま受け入れなさい
という意味かもしれないから・・
そういう信徒が扱いやすいという意図から
かもしれないから・・
往々にして小難しい議論をするな
という意味のことを添えて・・
 
これは前に書いた「信仰は理屈ではない」を
履き違えることと同じです。 
信仰者の死活問題として、
信仰について人間として、
考えるべきことがあるはずです。
決して難しくも小難しくもないのです。
どうか「信仰だから」と
思考を停止させないでください。
 
「物の考えかたでは、子供となってはいけない。
 悪事については幼な子となるのはよいが、
 考えかたでは、おとなとなりなさい。」
(コリント人への第一の手紙14章20節)
 
幼子でなくなった大人は
人間として考えなければならないことがあるはずです。
 
(※ 「悪事については幼な子となるのはよい」
 というのは分かりにくいですが、
 幼子は意図して悪事を行うことがないという意味か、
 幼子は悪事を行う力がない、できない、という意味か・・
 解釈の言葉遣いの難しさを痛感しますが・・汗)
 
幼子は意図して善行を積むことも出来ない
ということを知っていてほしいと思います。
 
幼子は善でも悪でもないのです。
遺伝素因による性格も
未だ明らかには発現していない年齢です。
何も持っていないし何も自分では出来ないのです。
与えられたものを
そのまま受けるだけなのです。
 栄養でも薬でも・・毒でも・・
ということです。つまりキリストが
直接与えるのではない現代においては、
誰が与え、また何を与えるかによっては
とても危険だということに注意してください。
 
「聖書語」とでも言うべき不可解な言語を用いる者は、
少し考えれば意味不明なほど文脈や前後関係や
時代背景から不自然だと分かるのに、
言うことの端々に聖句をちりばめます。
 
それが耳に心地よく響いたときこそ要注意なのです。
 
このブログを読める人は既に大人です。
だから考えてください。
幼子は譬えなのです。
私たちは幼子には戻れないのです。
幼子のようにはなれないのです。
しかも語りかけてくるのはキリストではないのです。
 
幼子の「素直」なイメージを利用して
口数を少なくすることや、
「幼子のように」受け入れて
文句を言わず聞き従うことを勧める者は
キリストの前で最も幼子から遠い者です。
 
 
(2014年02月19日、同日修正加筆)