「聖書語」
 
 
 前に、解釈信仰、神秘信仰、史実信仰、奇跡信仰、といった言葉を用いましたが、それらはいずれも人が解釈したことを神として信仰するのはおかしいという批判でした。ゆえに人の解釈を通しているので、一括して解釈信仰と呼んでよさそうに思えます。
 しかもそれらは解釈した文章的なものだけではなく、すり込まれた観念か体質か習性のように染みついてきます。そこから外れると条件反射のように拒否反応が起こりやすくなっているようです。
・・「言っちゃいけない」「聞いちゃいけない」の潜在意識 ? ・・
 
 「聖書語」というものについて前に書きましたが、教会では兄弟でもないのに兄弟と呼び合う。怖いのは、兄弟という呼称そのものではなく、兄弟と呼び合うことによって整った信徒である自分を確かめ合っているかのような雰囲気でしょう。信仰は呼称によって確かめることは出来ません。
 そして聖書の話をしたり聞いたりするのですが、聖書に関連した好ましい話だけが語られるようです。そんなに都合のよい話ばかりではないというようなことを言うと、とんでもないかのように風向きが冷たく変わってしまう。
 
 ずっと昔いたことのある教会で、洗礼を受けるときに発作を起こして倒れた信徒がいて、その話を牧師に言うと、牧師がまるで舌打ちでもするかのように不快な表情を見せたことがありました。
 教会では、にこやかに好ましいことだけを語って讃美していないと気が済まないらしい・・
・・牧師も長老も信徒も・・まるでパブロフの犬ではないか・・
 
(またこの譬えで「誇る者」に書いたような変な解釈をされると困るので書いておきますが、この犬は人に飼われています。神に飼われているのではありません。人の解釈による慣習的条件付けです。)
 
 讃美できないような都合の悪い話について結論は出せなくても (そういう話はおそらく結論は出ないと思います。教会はこの世にある間は聖なる教会ではないからです。人間の教会です。) 教会が人間としての共感を持ってそういう話を共有し考え話し合える場であったなら、私は教会から今ほどに離れることはなかったかもしれません。
 
 牧師は悩みのない平安の辻褄合わせのためにいるのではないのだから、守るべき威厳という神の前に空しい虚栄よりも、育むべきは人間同士の信頼関係です。牧師が信徒とともに人間として苦悩している教会であってほしいと願って止みません。
 
 
(2014年02月23日)