地獄論(再録+補足?)
 
前に書いて「地獄論」として載せたときに
当然どこか初歩的なところで
決定的におかしいところがあるだろうと思いながら・・
 
以下の記事が、理屈っぽいようで、
実は情緒的な吐露であるということ・・
 
 
>>
 
「地獄論」
(仮定の話なので私の嫌いな「論」を付けます。
 天国については不可能と言いたいほど想像できないのに、
 地獄については色々様々想像が可能のようです。)
 
 
この世で悪いことをしたから地獄に落ちるのではなくて
 
前世か楽園か知らないが、
すでに悪いことをしたからこの世に生まれたのではないか。
 
つまり、この世の後ではなく、
この世こそが地獄ではないのか。
 
そうすると、神様がいても、
罰を受けるために生まれたこの世の人々に対して
厳しいことが起こるのは当然であり、
 
いかなる天災や人災による理不尽や不条理や不幸も
そういう世界ならば、
神義(神様の正しさ)に矛盾することもなく、
救いも自由意思もなく滅びたとしても
何の疑問もないということになる。
 
失楽園も、空の空も、キリストの生涯も、
この世が地獄であることを婉曲的に表しているのかもしれない。
 
だから福音というのは、皮肉なことに、
人の罪性による最悪の訪れとして
この世とそこに生まれる人に否応もなく帰結するのだろう。
 
教義的に語られる「救い」は、
セメントのように我執の強い者たちによる自己正当化に過ぎない。
 
すべては必然であり、
神義に即して整然と行われる処刑に他ならない。
・・としたら、どうだろう・・
 
・・・(略)・・・
 
(2013年11月01日・・)
 
<<
 
 
仮定の話とはいえ、矛盾の指摘や、
反論は可能だろうと思いましたが・・
 
地獄にキリストが登場するのはおかしい
という反論については・・
 
地獄に救いが全くないとは限らず、
(人が決めることではない)
つまりキリストが現れても何ら不思議はなく、
それゆえキリストが殺されるということは、
むしろ意味が強められるだろう・・という感じになりました。
 
 
哲学などを学んでいる人には笑われそうですし、
すっきりはしないのですが今のところ・・
 
仮定として最悪の設定をすれば
不都合な現象は大方設定に矛盾しなくなる
・・ということになるけれど、
その場合、
最悪を想定することで矛盾がなくなっても、
最悪は最悪のままであり少しも発展がなく、
何の救いにも解決にもならない
 
・・ということかな・・と思っています。
 
 
前に書いた「地獄論」は
むしろ情緒的な溜息~叫びなのです。
 
近くか遠くで起こる不都合な出来事のたびに
「神が正しいなら何故・・」と神義を考えることに疲れて
うんざりしているときの気持ちなのでしょう。
 
思考をしばし停止して休みたいという願望に他ならない
のだろうと思ったりします。
(それは必要なことなのかもしれませんが)
 
 
余談ですが、上の問題は、例えば
「なぜ人を殺しちゃいけないの?」
という問いに対する答えを
文章で示すことの難しさに似たところがあるような気がします。
 
解答例?を考えてみると
1.警察に捕まるから?
 捕まらなければ殺していいの?となり、
2.傷つけられたら痛いし嫌だから?
 相手の身になって・・ということですが、
 死んだら痛いも嫌もないでしょう?となり、
3.家族が悲しむから?
 家族のいない人は殺していいの?となり、
 さらに「なぜ人を悲しませちゃいけないの?」
 という似たような問いになります。
4.歴史的に培われた知恵として?
 その知恵の根拠は?となり、また、
 人類の歴史は殺戮の歴史だったとも言えるでしょう・・
5.聖書十戒「汝殺すなかれ」
 後付けで道徳を強化するけれど、
 宗教的な教えがないと殺してしまいますか?
というような感じになってしまって、
やはり文章による説明は難しいようです。
 
つまり直観的に理屈抜きで理解していなければいけないのでしょう。
 
似ていると思ったのは、
人を殺してはいけない根拠をはっきり示せないならば
人は人を殺してよいとしたら、
それは最悪の設定ということになり、
それでもやはり人が人を殺すという行為と
それがもたらす状況は
殆どの人にとって最悪であることに変わりはない。
(この3行が答えになりそうでならないのは、
 一律に総ての人ではなく「殆どの人にとって」が付くところです。
 4.と、 ごく一部ながら殺人を正当化する人がいるということ・・)
つまり最悪の設定を考えること自体が建設的とは言えない気がします。
・・蛇足でしたが・・
 
 
(2014年03月01日、同日一部修正)
(近況)ここ1~2か月、体調がよくないので
更新もままならない状態になりそうです。
必要に応じてこの記事は修正したいところなのですが・・