言葉と神
 
 
神の支配を「神の支配」と言うのは仮称に過ぎません。
人には神の支配を表す言葉がないので
とりあえず使っているのだと思います。
これもとりあえずですが「運び」とも書いています。
どのみち人には表現手段がありません。
人の言葉を使うしかないので仮称として使っているのだろう
と思っています。
 
神の支配も必然も計画も人の言葉では表せないことでしょう。
それは神によって秘められたことで
神によってのみ神の表現方法で表されるものなのでしょう。
 
神の表現方法を人は知り得ないのだから
人の言葉と解釈によって神の支配は語れないと思います。
 
残るのは神について
その時々の想いだけということになり、
そこに無謬性を求めるのは無理だと思っています。
 
人の「神秘信仰」は、神秘であるにもかかわらず
解釈から既知のように語ってしまいます。
 
神の支配・必然・計画、いずれも
人の言語世界の仮称に過ぎないと思います。
 
様々な現象について人は判断して行動しますが、
それは神の問題ではなく人生の問題でしょう。
 
それゆえ私は
「神はどうこう・・」という書き方をできるだけ避けたいです。
私にとって神はただただ恐れ多い御方というほかありません。
 
人の言葉は人の問題を語ることによってのみ
神に期待して神の問題に、
絶望的であっても、希望を寄せるしかないのだろう
と思えてなりません。
 
・・というようなことをコメントに書きました。
 
解釈信仰は自分という人の解釈を信仰することであり、
つまるところ自分信仰と言わざるを得ません。
 
 
「神は・・」という主語で語ることもありますが
それは解釈か仮説に過ぎません。
「神は・・」という主語で教えられる信仰はありません。
そういう信仰を語るのは人の傲慢というものです。
 
ここを取り違えることによって教条主義や原理主義や
キリスト教思想信仰や教会信仰や牧師依存信仰
といった様々な解釈信仰つまるところ自分信仰が生まれます。
 
それに対してしばしば
「聖霊による啓示という直接体験」
というものが強調されることがあります。
しかし信仰者は問われます。
「その直接体験が神からの聖霊の啓示だとどうしてわかったの?」
・・これは無限に理由と根拠を問われ、
人である限り答えられません。
つまり直接体験で
聖霊すなわち神の啓示を知ることが出来るのは
預言者以上の人です。
直接体験を強調する人は
「自分は預言者だ」と言っているようなものです。
カルトと同質だと言ってよいでしょう。
 
何度も書いてきたことですが
人は神への想いによって生きるのであって
神を理解したという確信によって生きるのではありません。
 
したがって、信仰とは
1.聖書に表わされた
 神と神の支配を解釈していることに恐れを抱くことであり、
2.神と神の言葉への想いに希望を抱くことに他なりません。
 
そういう希望を
決して捨てきれないのがキリスト者(信仰者、クリスチャン)です。
たとい死ぬ時の自分の眼差しが
天上に向かって
怒りや恨みや叫びや嘆きや悲しみや悔いや罪悪感に満ちていようとも・・
 
 
(2014年03月05日、同日一部修正)