聖書を読んでみて単純に考えたこと・・
7×70
ペテロがイエスのもとにきて言った、
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、
幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。
七たびを七十倍するまでにしなさい。
(マタイによる福音書18勝22~23節)
七は天地創造にまつわる数で完全を意味する。
つまり「七たびを七十倍」とは、限りなく赦しなさい
という意味らしい。
僕(しもべ)はひれ伏して哀願した、
「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」
僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、
その負債を免じてやった。
(同26~27節) に続き、
次に、上の僕が
より少額を貸していた別の人を赦さなかったため、
主人は立腹して僕を獄舎に引き渡す話があって、
もし心から兄弟をゆるさないならば、
わたしの天の父もまたあなたがたに対して、
そのようになさるであろう。
(同35節) に続く。
つまり人は人を限りなくゆるすべきだ
ということだろう。
しかしここで注意するべきこととして、
主人は僕がひれ伏して哀願することによって
僕に罪の意識があり悔いているからゆるしたのであり
(上の26~27節で明らかだと思う)
その僕が別の人を赦さなかったため、主人は
僕自身の罪を悔いた心が本当ではなかったと判断して
今度は赦さなかったということだろうと思う。
人は限りなく無条件に人を赦すことが美徳、
即ち主イエスの御心に適うことだろうか。
人を傷つけた者がいたとしよう。
人が限りなく無条件に赦せば
赦され罪を問われなかった者は罪の意識もなく、
さらに多くの人を傷つけるだろう。
この場合、
赦すことは、愛することではなく、むしろ悪である。
認められない罪は赦しようがない。
認められない罪は赦されることを求めてさえいない。
覚えざる罪というのがある。
記憶されなかった罪、思い出せない罪があるということのようだ。
しかしこの場合も
覚えざる罪の意識があるということは言えるだろう。
赦すことを勧める者にかぎって言うことで満足して
人が人を赦さないことを責める反面、
実際は自身が文句を言わせず裁いており
赦しても許してもいないことが多いという印象がある。
※ 「ゆるす」を
「赦す」と書いたり「許す」と書いたりするが、
「赦す」は既に犯した罪を赦免することで、
「許す」は事前に許可を求めること
という意味で
「罪のゆるし」は犯した罪をゆるすことだから
「赦す」と書くべきだという。
ここに「聖書語」の危うさがあるような気がする。
「赦す」と書くことで整ったような気分になるということ・・
他にも「恐れ」を
「畏れ」は「畏(かしこ)まる」という意味を含むから
「神をおそれる」は、神様は味方だから、
「神を畏れる」と書くことで
同様のちょうどよい整った気分になるらしい。
言うまでもないが、態度は言葉で決められるものではない。
私としては、神へのおそれは半端じゃないものなので、
「神への恐れ」と書くことを好んでいる。
「ゆるす」については
広く使われている「許す」を使うか
原義を重んじて「赦す」を使うか、個人が決めてよいのだろうと思うが、
これも言うまでもないことだが、
いずれにしても漢字を使い分けて気分が良かろうが悪かろうが、
それで神に対する態度が整うとは限らないのである。
※ ちなみに、一部か一般の聖書語か知らないが、
7 を完全数と言う向きがあるようである。
一方で完全数を広辞苑などで引くと
数学の完全数 6 が出てくる。
2^(n-1)×(2^n -1) (ただし(2^n -1)は素数)
という一般式もあるようである。nの値によって完全数は
6,28,496、・・・(どんどん巨大になる)
神の天地創造7日における実働日数が6日というが
・・これはどうみてもこじつけであろう。
(2014年03月13日、同日一部加筆修正)
7×70
ペテロがイエスのもとにきて言った、
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、
幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。
七たびを七十倍するまでにしなさい。
(マタイによる福音書18勝22~23節)
七は天地創造にまつわる数で完全を意味する。
つまり「七たびを七十倍」とは、限りなく赦しなさい
という意味らしい。
僕(しもべ)はひれ伏して哀願した、
「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」
僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、
その負債を免じてやった。
(同26~27節) に続き、
次に、上の僕が
より少額を貸していた別の人を赦さなかったため、
主人は立腹して僕を獄舎に引き渡す話があって、
もし心から兄弟をゆるさないならば、
わたしの天の父もまたあなたがたに対して、
そのようになさるであろう。
(同35節) に続く。
つまり人は人を限りなくゆるすべきだ
ということだろう。
しかしここで注意するべきこととして、
主人は僕がひれ伏して哀願することによって
僕に罪の意識があり悔いているからゆるしたのであり
(上の26~27節で明らかだと思う)
その僕が別の人を赦さなかったため、主人は
僕自身の罪を悔いた心が本当ではなかったと判断して
今度は赦さなかったということだろうと思う。
人は限りなく無条件に人を赦すことが美徳、
即ち主イエスの御心に適うことだろうか。
人を傷つけた者がいたとしよう。
人が限りなく無条件に赦せば
赦され罪を問われなかった者は罪の意識もなく、
さらに多くの人を傷つけるだろう。
この場合、
赦すことは、愛することではなく、むしろ悪である。
認められない罪は赦しようがない。
認められない罪は赦されることを求めてさえいない。
覚えざる罪というのがある。
記憶されなかった罪、思い出せない罪があるということのようだ。
しかしこの場合も
覚えざる罪の意識があるということは言えるだろう。
赦すことを勧める者にかぎって言うことで満足して
人が人を赦さないことを責める反面、
実際は自身が文句を言わせず裁いており
赦しても許してもいないことが多いという印象がある。
※ 「ゆるす」を
「赦す」と書いたり「許す」と書いたりするが、
「赦す」は既に犯した罪を赦免することで、
「許す」は事前に許可を求めること
という意味で
「罪のゆるし」は犯した罪をゆるすことだから
「赦す」と書くべきだという。
ここに「聖書語」の危うさがあるような気がする。
「赦す」と書くことで整ったような気分になるということ・・
他にも「恐れ」を
「畏れ」は「畏(かしこ)まる」という意味を含むから
「神をおそれる」は、神様は味方だから、
「神を畏れる」と書くことで
同様のちょうどよい整った気分になるらしい。
言うまでもないが、態度は言葉で決められるものではない。
私としては、神へのおそれは半端じゃないものなので、
「神への恐れ」と書くことを好んでいる。
「ゆるす」については
広く使われている「許す」を使うか
原義を重んじて「赦す」を使うか、個人が決めてよいのだろうと思うが、
これも言うまでもないことだが、
いずれにしても漢字を使い分けて気分が良かろうが悪かろうが、
それで神に対する態度が整うとは限らないのである。
※ ちなみに、一部か一般の聖書語か知らないが、
7 を完全数と言う向きがあるようである。
一方で完全数を広辞苑などで引くと
数学の完全数 6 が出てくる。
2^(n-1)×(2^n -1) (ただし(2^n -1)は素数)
という一般式もあるようである。nの値によって完全数は
6,28,496、・・・(どんどん巨大になる)
神の天地創造7日における実働日数が6日というが
・・これはどうみてもこじつけであろう。
(2014年03月13日、同日一部加筆修正)
コメント