また思い付いたままに似たようなことを書くことになりますが・・
 
 
  神への恐れ
 
 
解釈信仰によって神への恐れは、
未知なる絶対の存在に対する恐れではなく、
「想定された既知の絶対」に対する礼儀に堕してしまっている。
 
想定可能な「絶対」は絶対ではない。
想定する人間が絶対ではないからだ。
 
人は神を想定できないのに
「人は神を知ることが大切です」と言い、それは
神を知ることが出来るからと思っている信仰者が多いようだ。
 
ときに「聖書に書いてあります」と言う。
聖書は解釈するのは他でもなく人である。
「文字通り」から「歴史的・文献的」に至るまで
解釈は紛れもなく人の業(わざ)である。
 
ときに「人が知るのではなく、神が知らせるのです」と言う。
知らせたのは神であるとどうして分かるのか
という返答不能な無限の問答が続くだろう。
 
人の業や境地や心構えによって
神や神の関わる信仰を
正しく会得~感受しようとする方法論は間違いと言わざるを得ない。
どうすればよいという方法は人の側にはない。
どうしても高々原罪・・という理解以前の心構えが必要だ。
人の言葉は便利ツール以上のものではないが
神の領域は便利ツールには収まらないだろう。
 
個人の信仰の原初においてそこを勘違いすると
出来上がるのは信仰者ではなく
宗教モンスターとでも言うべき存在者になるだろう。
 
人が知り得るのは
神ではなく神の意思や行為でもない。
人が知り得るのは
不可知であるがゆえに絶対の存在に恐れを抱くことであり、
絶対の存在であるがゆえにその君臨に希望を抱くことである。
 
希望は漠然としているようだが、
恐れと希望を通して絶対者を想うとき
生まれてから死ぬまでを支える信仰となりうる。
 
信仰としての希望は条文と違って
画一的ではあり得ない。
人が他の人を想うときの想定が不確かなように
個人によって信仰がもたらす非言語的な希望の内容はそれぞれ異なる。
 
恐れても思いによって想い描いてしまう
という原罪を自覚することが絶対者に対する信仰であり
ゆえに希望であり
人間にとってそれ以上はないだろう。
 
したがって解釈や仮説は
信仰そのものではなく糧に過ぎないことを
他者にも自分にも明記したうえで述べられるべきである。
また解釈や仮説であるから信仰と違って
整合性や一貫性が問われることになる。
それを経てもなお信仰そのものではない。
「信仰は理屈ではない」とはそのことだろうと思う。
 
 
神は可知だと言うなら分かるように説得して欲しい
・・軽蔑のように「不可知論に陥った」と言う前に・・
 
 
(2014年03月21日)
 
 
 
  悔い改め(再録) 
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白(再録) 
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(書いたのは恐らく20代半ばの頃・・)