論理のような、論理を否定するような、初歩的なことかもしれませんが・・
 
 
  詭弁
 
 
「神は神を造れない」 ―――(1)
というのがあります。
 
そこから
「(ゆえに)神は全能ではない」 ―――(2)
というわけです。
 
しかしまた
「(ゆえに)神は至上であり唯一全能である」 ―――(3)
とも言えます。
 
相反する2つの結論が出てきます。
 
(1) → (2) は、
言葉面の論理遊びで、詭弁だろうと思います。
 
(1) → (3) は、
同義の言い換えに過ぎないと思います。
 
今まで、仮定の話、仮想、想像、仮説、仮称、
という事柄について、
私も「地獄論」その他、書いてきましたが、
 
そこに表わされることは人の想定の範囲内に過ぎません。
表したことがその範囲を超えて真となることはありません。
既知のこと即ち人の言葉の概念などを土台に語っており、
どんなに考えてもその土台を超えることはないのです。
 
神は既知ではありません。
神はどこまでも恐るべき未知であり
希望を寄せることは出来ても
人の言葉や論理や感性の俎上に乗せることは出来ません。
 
神が存在か不在かを議論することは無意味です。
神は信ずる者にとってのみ神ですから
神について人は客観的にはなり得ないと思います。
 
人が努めて(ある程度ですが)客観的になって
対象に出来るのは人と人の世界だけです。
つまり
人が神について語るというのは
神を信じたり信じなかったりする人について
語ることに他なりません。
 
前にも書いたことを繰り返しますが、
「神」を主語にした神の内容が人にとって真となることはない
と・・何度考えても・・思います。
 
「神は全知全能で唯一の絶対者です」
「神は愛です」「主(神)の道を歩みなさい」
この類の言葉は聖書由来だからというので
枚挙に遑(いとま)がないほど讃美とともに語られますが、
信ずる者にとってだけ意味を持つ反面、
語る者にとっても語られる者にとっても空疎で無感動な
思考停止を促す言葉であることを肝に銘ずるべきでしょう。
 
神について信仰について語りたいならば
全身全霊の残る力を込めて
人(の世界)について語るべきでしょう。
 
 
(2014年03月27日)