フィクションの想定問答です・・
 
 
  憐れみ病
 
 
某:
 A先生が心配しておられます。
 
私:
 私の書いたものを見せたのですか。
 
某:
 見せられませんよ、あんなもの・・
 でも神様はあなたを守ってくださいますから。
 
私:
 私の意見を知らずに
 A先生は私のことを心配しているということですか。
 だとすれば
 それはキリスト者が陥りやすい「憐れみ病」です。
 
某:
 憐れみ病?・・なんですか、それは・・
 あなたのことを心配して言っているのに。
 
私:
 なぜ心配するのでしょう。
 私の意見の内容を知ることもなく
 なぜ心配することが可能になるのでしょう。
 原因のない結果をもたらしているのは
 いったい何なのでしょう。
 
某:
 ですから、あなたがあんなことを書くから・・
 
私:
 「あんなこと」と言ったとき
 私は「憐れまれ心配される人」という
 見なしの行為がなされているということです。
 
某:
 いえ決してそういうことではありません。
 私としては
 とにかく隣人愛として考えているということです。
 
私:
 相手の結論だけ強く否定しても
 根拠がなければ、それで済んだことにはなりません。
 否定表現だけでは何の否定にもならないのです。
 
 「とにかく」は、めんどくさいときに
 それまでの話をぶった切る感情表現ですから
 自分の結論以外、何も語ってはいません。
 
 「憐れみ病」は
 やたら憐れむことが善だと思い込む病であり、
 人の憐れみが病んでいるとも言えるでしょう。
 
 憐れむ理由もなく他者を
 「神の恵みに気づかない人」として低め
 ゆえに自らを高くすることです。
 「悟らない人」「かわいそうな人」として
 ありがたい施しを感謝して受け取りなさい
 という態度を身に着けてしまう病です。
 
 隣人愛と言われるが
 この「憐れみ病」は愛とは全く関係ありません。
 これは伝染病なのです。
 私を含めキリスト者なら誰でも
 犯しかねない慢性の過ちによって発症します。
 
 そういう性質ですから
 一度に一つの方法でスパッと切り離すような
 スマートな治療法も予防法もない感染症です。
 だから、この場合
 人間には「常に(健全に)」は不可能で
 せいぜい慢性化しないように
 折に触れて考え直すしかないのです。
 
某:
 せっかく心配して言ってあげたのに・・
 
私:
 「してあげた病」という名前でもよいのですが・・
 伝道が伝染になりませぬように・・
 
某:
 あなただって私をさげすんでいるでしょう。
 
私:
 「あなた「だって」」で
 ご自身の「さげすみ」の「憐れみ病」
 を認めたことになりますが、
 それは言葉の綾か勢いだとしても・・
 
 私は反対意見を言っているだけです。
 黙っていたら恐らく
 いかなる叫びも嘆きも届かなくなるでしょう。
 
 さげすんでも憐れんでもいませんよ。
 ・・少し怒ってるけど・・
 
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・・落ち着かない「馬」?最終行の「怒ってる」からの連想で持ち出しました。
今年うま(馬、午)年、私、うま年生まれの還暦、失礼・・
 
(2014年04月30日、同日一部修正)
(2014年05月01日、一部修正)