確信の果て
 
 
いかなる思い込みも
個人においては信仰となりうる
というより
いかなる個人においても
信仰は思い込みを繰り返している
 
思い込みが邪悪なのは
思い込みの宗教的確信は個人にとどまらず
人の確信を神への信仰として他者に伝え
「わかりました。ありがとう」を聞きたがるようになるからだ
 
人に伝えるとき思い込みの確信は
自分信仰という
むしろ信じないほうが良かったというほどの
あってはならない邪悪さを示すだろう
 
その邪悪さに気づく自分を残すために
神への確信にだけは走らないでほしいのは
個である人として考えられる自分を残しておいて欲しいからだ
 
思い込みが確信の自分信仰になったとき
自己の確信に
神を見たかのように酔いしれる者を裏切るのは
敵ではなく
まさに自らの信仰生活に他ならないからだ
 
そのときに自分に反対する者を
神の敵と見なして悪口を吐き
その死を願う者とならないためである
 
 
(2014年08月22日)