今回は実際に引用された聖句についての話です。
 
  聖句引用の危険
 
 
「自分の確信を捨ててはいけません。
 この確信には大きな報いがあります。ヘブル書10:35」
 
引用聖句の「確信」は、
信仰を守ろうとする神の運びへの信頼の確信です。
 
私が問題にしてきた確信は
人が勝手に神を既知の相手として確信してしまうことで
上の聖句の確信とは大きく異なります。
 
そして何より
迫害の時代に書かれたことを忘れてはなりません。
 
迫害の時代で生命の危機にさらされている
という状況だからこそ
結果の生死を問わず
どこまでも信仰を貫くために確信が必要になります。
 
そういう状況がないところで
安易に引用してよい聖句ではありません。
 
もし生命の危機的状況があるなら
それをはっきり示さなければ引用は的外れになります。
 
「来るべき方が来られる
 遅くなることはない(ヘブル10:27)」
 
自らに向けられた批判を
迫害と見なすことは
私が今までも述べてきたように
信仰者にありがちな被害意識によるものでしょう。
 
批判と迫害は全く別のものです。
 
人の意見を聞こうとしない者が
理由も示さず相手を邪悪と決めつけ
批判を返すわけでもなく
批判者に何かを指摘するわけでもなく、
あたかも「迫害者から逃れる」かのように
上の聖句を引用し
批判について考えようともしないで拒否するときに
たびたび見られる態度です。
 
「来るべき方が来られる
 遅くなることはない(ヘブル10:27)」
 
この引用で分かることは、
批判した者を、自分の敵のみならず、
明らかに「神の敵」と見なしていることです。
だから神が退治してくれるのを待つ
という言い分のようです。
殆ど呪いの当て付けに近い・・。
 
上に述べたように
聖書の流れと文脈を無視した自分の勝手な解釈で
神の敵から身を隠し、
神が敵を滅ぼすのを待つという態度は
甚だしい時代錯誤であり、
また自分が置かれている状況についての
著しい曲解であり、
しかも意図的であります。
 
自分の不備は全く眼中になく
神ではなく自分の意見を正当化するために
不都合なことから目を逸らす態度であり、
まさに、
自分だけが神の御心に適っていて、
また信仰ではなく
自分だけが正しいという異常な確信に満ちたまま、
その根拠をこともあろうに神と聖句に求めて慢心し
聞くことも語ることもやめてしまうことなのです。
 
上に書いたことを併せて考えると、
信仰者一般に言えることとして・・
 
自分の都合による断片的聖句引用が
いかに自己保身的で他罰的で侮辱的で
危険になり得るかが示されているのです。
 
・・こういう危険は、
傾向として、実に
しばしば信仰者に見られます。
ましてや聖職者が
引用の危険性を信仰者に指摘するのではなく、
逆に自ら率先して、
聖句引用→他罰的になってしまうなら・・
 
迫害されたと被害者のつもりになってしまって、
逆に婉曲的に陰湿に攻撃する口実を探せば
断片的になら幾らでも見つけ出せるのが聖書です。
幾らでも人を聖句をもって邪悪な敵に仕立て上げられるのです。
聖書の私物化と呼んでいます。
もちろん、そういう引用の仕方が間違っているのですが・・
・・残念ながら、これは珍しくはないのです。
 
聖句の引用は、特に断片的引用は、
よくよく注意したほうがよい
という教訓の例として学ぶべきでしょう。
 
 
(2014年10月29日、同日一部修正)