聖霊
 
 
聖霊の働きを信じます。
それは密かに
これが聖霊だと人には分からないように
秘められた神の意思によって働くのでしょう。
それを知っているという者に注意してください。
 
解釈信仰者
つまり教理や教義や解釈という
人の言葉で表されたことを
神聖として信じている人は、
何を書くにしても
追いつめられるほど
書いたものに
 
人間味がありません。
 
人間らしい温もりがありません。
 
人間が書いた文章とは思えないくらい
共感の乏しい言葉を使い
辻褄を合わせようとするのですが
神を恐れることなく
聖三位について語れば語るほど
自分の頭の中で
教えられたとおりに
聖三位を並べて
その意志と行為を述べるのですから
人間とは思えないほど
定式化された聖書語の典型を繰り返します。
 
追いつめられたり怒ったりした時には
長めの文章を書くこともありますが、
読んでみると
日頃から言っていることと変わりがありません。
信仰者なら誰でも知っている理屈的なことを
ただ長めに繰り返すだけなのです。
長くても内容は同じステレオタイプなのです。
 
かつ人の意見をほとんど受けません。
そこがおかしいと指摘しても
それを受けた発言をしません。
何を言われても
言い古された聖書語を繰り返してきます。
殆ど呪文ではないかと思います。 
 
人の言葉は頼りなくて
繰り返すごとに
最初のインパクトは失われてゆきます。
にもかかわらず絶対だからと
繰り返すことに熱中するのです。
そうやって同じ内容の反復にしがみつくのですが
繰り返せば繰り返すほど
失われてゆくのは
言葉を求めようとする新鮮な感受性です。
本来人間なら誰でも持っているし
実際持っていたはずの感受性が失われてゆきます。
 
聖書に登場する使徒たちは
聖人と言われる人たちです。
聖霊を受けたと分かるのは聖人以上の人でしょう。
聖なる御方を
信じることと知ることは違います。
解釈信仰者は
聖人たちが受けたという聖霊を
自分も直接受けたという確信によって語ります。
つまり私は聖人だ、私は聖人だ、
だから私の言うことは絶対だ
と言っているようなものです。
 
さて私たちは聖人でしょうか。
聖職者は聖人でしょうか。
 
 ? ? ? 
 
 
聖書の解釈を生かすためにも
人の感受性と体験によって
信仰体験を生かしていく言葉の努力が必要です。
 
解釈や教理の文言を語るだけでは
信仰を語ったことにはなりません。
 
血も涙も温もりもある言葉を使いたい、
何よりもそういう人間でありたいと願っています。
 
 
(2014年11月01日、同日一部修正)
解釈信仰者は、こういう発言に対しても
受けて答えることはしないでしょう。
どれだけ頭の中で
聖三位を振り回せば気が済むのでしょう。
前もそうでしたが、
批判の動機と題材だけは尽きることなく供給してくれます。