終末
 
 
仮定の話ですが
私は何度生まれ変わっても
それが私なら、
やはりこうなっていたんだろうか・・
こういう人生に今のように立っているんだろうか・・
別の人生があっただろうか・・などと考えながら
溜め息をつくことがあります。
乏しい自分の理性や感性を賜りながら
目一杯生かそうとして果たせず、
分からない聖霊の働きがどこかにあって、
キリストを仰ぎながら、かすかな希望のうちに
今を過ごしたいと願っています。
 
少なくとも
理性によって学んだ教理によって
理性を縛られ、その理性から、
さらに教理の辻褄合わせをしながら、
それを絶対軸のように世界と終末を語り
自らの思いや確信については
神からのみ受けたものとして
聖霊によってのみ運ばれているものとして
もはや内省も修正も
罪深い人の立場で行えなくなるような
今を過ごしたくはないのです。
 
 
最後の審判について
5:9(途中から)
ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、
善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、
それぞれ報いを受けねばならないからである。
   (新約聖書・コリント人への第二の手紙5:9-10)
 
神の声を聞いたヨブの悔い改めの告白
42:1
そこでヨブは主に答えて言った、
42:2
「わたしは知ります、
あなたはすべての事をなすことができ、
またいかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないことを。
42:3
『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。
42:4
『聞け、わたしは語ろう、
わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
42:5
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
   (旧約聖書・ヨブ記42:1-6)
 
黙示録の引用
22:3
のろわるべきものは、もはや何ひとつない。
神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4
御顔を仰ぎ見るのである。
彼らの額には、御名がしるされている。
   (新約聖書・ヨハネの黙示録22:3-4)
 
 
最後の審判と黙示録は
恐らく密接な関連があるのでしょう。
それに加えて
神を聞き神を恐れるヨブの告白を合わせると
終末に備えるという大きなテーマが浮かんでくるのですが
 
「自分の理性による善悪の判断を押し通し、
 創造主に対して、この方を無視し、
 反逆を重ねて来ている者」
 
教理があるから理性を捨てよ
とでも言いたいのでしょうか。
 
教理を受けたのは聖霊のみによるのであって
自分は理性によっては何も考えなかった
という神秘体験でも語りたいのでしょうか。
 
「反逆を重ねて来ている者をも、
 天の父と呼ばれる方は惜しんで下さって、
 救いの道を拓いていて下さったのだそうです。」
 
まるで他人事のような伝聞の書き方は
神から聞いたとでも言いたいのでしょうか。
「反逆を重ねて来ている者」に
自分が含まれていることについて述べなければ
神の立場で人を憐れんでいることになると気づかないのでしょうか。
 
「十字架刑において死刑を執行し、
 私たちを処刑が終わったものとする手続きを完了し、
 私たちを償いが終わったものとみなして下さる」
 
相変わらずの完了形です。
神の思いはすべて分かっていて
完了したから自分は終末の心配などしなくてよい
とでも言いたいのでしょうか。
 
「子の身分を与える霊を私たちの内に派遣して下さって、
 私たちを子とし、家族として受け入れて下さる」
 
こういう教理的観念を並べただけの話で
福音を述べ伝えたつもりなら
罪の話は忘れてよいと言ってるようなものでしょう。
 
「このプレゼントを受け取った者は、
 天の父と呼ばれる方の家族として
 額にその方の名が記されるのですね」
 
夢を見ているのではないかという話とイメージです。
「額にその方の名が記される」を語ることが
今、いかなる実感として、いかなる喜びにつながるのでしょう。
 
 
本質的に未知のものを
既知のものとして語ってしまうとき、
あちこちに現実に即していない場違いな陶酔感と、
おいしい話しか語れないか語っていけない
という奇妙な学習結果が表れてきます。
 
学んだ教理や教義や信仰観を
画一的に理解して
観念と観念とを結びつけては
個別か一般かを問わず強引に当てはめることで
完了した気分に浸るのが信仰と言うのなら
 
つまるところ現実逃避を勧める態度に等しく、
現実に起こっている苦悩や不幸や疑問や
不条理や理不尽から目を背け
解決済みとする自らの言語世界で
信仰から信念へ執念へ我執へと
人間の信仰と志向と思考を乖離させてゆく危険を
提言しておきたいと思います。
 
また、受け取ることは考えず
交流の場に
一方的に発信するだけの無遠慮によって保たれるのは、
完璧な信仰ではなく、
見ざる聞かざる、だけど言いたいことだけは言う
という
これだけは完璧に近い自己中心、
言い換えると自己への隷属ではないかと考えます。
 
信仰は隷属へ固定するためではありません。
信仰は隷属から解放するためにあります。
 
つまずかないことを前提にするのではなく、
つまずいて、たとい壊れても、
今祈ることが希望であるなら
それこそが今の奇跡なのかもしれません。
 
終末に備えるということは
今を大事にして積み重ねることのような気がします。
 
 
(2014年11月16日、同日加筆)
信仰→祈り→希望→・・奇跡?・・
こんなふうな表現が最近は癖になっているというか、
しばらくは離れないのかな・・また考えてみます。