臨終
 
見ている 
多くの顔が 
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった 
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ 
 幼子が胎に宿った 
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
(1980年前後~96年のいずれかの時)
 
 
  主とともに
 
希望は常に主とともにあり
過不足のないように
折に触れて人に与えられる
 
人が思いのうちに
救いへの観念の通路を作り
「常なる救い」に酔いしれるとき
人は希望ではなく
鉛のような自信に生きている
 
決まった通路などないのだ
 
なりふり構わず本音を叫び
壊れた心で
祈ること以外に何があるだろう
 
 
(2014年11月18日)
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
(97年以降か・・?)
 
 
  祈り方?
 
どんな行いにおいても
どんな発言をしても
どんな祈り方であっても
 
人は神に対して
常に無礼なのであります
 
そういう祈りを
数えきれないくらい
してきました
 
 
(2014年11月18日)