的外れ
「神である主と呼ばれる方に相談しないで、
自分の理性による善悪の判断によって行動している者」
「天の神、主と呼ばれる方の導きについて行くよりも、
自分の理性のほうが確かだとして、
天の神、主と呼ばれる方を退け、
自分の理性の判断を採用しています」
「自分の理性に信頼することは、
砂の上に家を建てるようなことのようです。
私たちの理性は、本来のあるべき位置からずれてしまっており、
正しい判断ができなくなっているのだそうです」
「私たちの知る所は、あの方の知っている所と比べても、
ほんの一部分で、限られた情報をもとにした判断でしかない」
「天が地から離れているように、東が西から遠いように、
天の神、主と呼ばれる方と私たちの理性による判断とは違う」
「私たち、生まれたときからの私という霊の理性は的外れになっていること、
あてにできないものであること、
砂の上に家を建てるようなものであることを認めて、
イエスによって派遣された聖である霊と呼ばれる方が
心に書き付けて下さる天の神、主と呼ばれる方の御思いについて行ってみたい」
一見まともだ、なんて思わないでください・・
私が今まで書いてきたことを汲み取ろうともしないで
恐ろしい教理の理路に執着して、
ともに罪深い人間という共感の姿勢を持たない人の
解釈信仰と神秘信仰による傲慢、
人間としての的外れから自分を除外してしまった的外れです。
「神である主と呼ばれる方に相談しないで」
神様に相談したいのですが、
どこへ行けば相談してもらえるというのでしょう。
こういうことを言うあなたは
いったいどうやって神と相談しているのでしょう。
「自分の理性による善悪の判断によって行動している者」
これは望ましいことではないが
人間が自分で価値判断をしているという実存を示しています。
これは、
あなたは神と相談して決めている、自分は神に会うことが出来るから
とでも言うのでしょうか。
神に対する恐れを知らない傲慢です。
「天の神、主と呼ばれる方の導きについて行くよりも、
自分の理性のほうが確かだとして、
天の神、主と呼ばれる方を退け、
自分の理性の判断を採用しています」
神を退けたのではなく分からないということです。
人の理性のほうが確かなのではなく
神が手とり足とり教えてくれるわけではないから
人は自分で判断せざるを得ないという原罪の世界、
あなたはこれも分かっていなかったのですか。
あなたは神の導きについてゆくことが出来る
とでも言うのでしょうか。
神に対する恐れを知らない傲慢です。
「自分の理性に信頼することは、
砂の上に家を建てるようなことのようです」
神に対して私は
砂の上に家を建てるような罪を犯していることを認めますが、
とんでもない上から目線だし、預言者目線だし、
ただの人間である人に言われたくはないです。
神に対する恐れを知らない傲慢です。
「私たちの理性は、本来のあるべき位置からずれてしまっており、
正しい判断ができなくなっているのだそうです」
人間は誰でも神のような正しい判断は出来なくなっているのです。
自分は出来ると言うのなら、あなたは神の領域にいるのか、
と返すしかない。神の声を聞いたとでも言いたいのでしょうか。
「私たちの知る所は、あの方の知っている所と比べても、
ほんの一部分で、限られた情報をもとにした判断でしかない」
「天が地から離れているように、東が西から遠いように、
天の神、主と呼ばれる方と私たちの理性による判断とは違う」
これは人間なら誰でもそうなのです。
だから人は過ちを犯す罪人ということでしょう。
キリスト者なら誰でも知っていることを
わざわざ書いて何が言いたいのでしょうか。
自分との違いを書いているつもりなら
あなたも人間なのだから神を恐れぬ傲慢です。
「私たち、生まれたときからの私という霊の理性は的外れになっていること、
あてにできないものであること、
砂の上に家を建てるようなものであることを認めて、」
あなたも人間としての不全性と罪を認めるのですね(強い確認です)
「イエスによって派遣された聖である霊と呼ばれる方が
心に書き付けて下さる天の神、主と呼ばれる方の御思いについて行ってみたい」
なのに
聖霊が心に書きつけてくれたから
神の御思いが分かるので
それについてゆきたい
というような文脈になりますが・・
あなたは自分が神秘的存在で
特別に聖霊が分かるというのでしょうか。
神に対する恐ろしい傲慢です。
最初から私に反対する気持ちだけで
決めつけて書いているようです。
本気で人間同士のコミュをしたいと思っているのでしょうか。
自分は信仰があるから違うとでも言うかのように、
他人事のような距離感で人の不全を書いている。
神と人との、完全と不全との、違いを書いておきながら、
分かっているかのように神の思いについてゆきたいと言う・・
ここの呆れるほどの的外れと
あなたという人間の自己矛盾に気づいていますか。
実感として申し上げますが、
不全に完全は分からない、
ゆえに、さらに
不全には、不全か完全かも分からない。
つまり聖霊を信じていても
今、聖霊が働いたと
人が確信し特定することは出来ない。
もし書かれているかのように人に分かるものとして
体験できる聖霊を語るなら
それは人の傲慢に他ならない。
聖霊だと思っても神に恐れを抱くなら遠慮するべきである。
聖三位、神の領域、同様だと思います。
聖三位、神の領域、同様だと思います。
今回は傲慢のオンパレードでした。・・驚きました・・
(2014年11月20日、同日一部修正)
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