(同日一部修正さらに修正)
まず、ようやく
ローマと江戸時代の迫害について述べているようです。
五行で・・それはいいのですが、
信仰者の被害者意識の問題には触れていません。
むしろ自分の被害者意識を剥きだしにしている感じです。
そこは大いに問題です。
「御子である神とか呼ばれるその方が
ご自身と一つになっている者を守って下さるので、
悪い者が手を触れることはできず」
「まことの神は、天使を送って獅子が
ダニエルに危害を加えることがないよう
守って下さったのだそうです」
「天の神、主と呼ばれる方、あるいは御子である神と呼ばれる方は
ご自分に属する者を守って下さる」
自分は神に守られるべき人ということが前提になって
聖句を解釈しています。
守られるべき自分の姿勢や態度についての
問題意識がありません。しかも・・
「神は、私たちの願いの通りに動く神ではなく、ご自身で決定され、
ご計画の通りにことを運ばれる方」
と書いています。すなわち
ローマと江戸時代の迫害について述べているようです。
五行で・・それはいいのですが、
信仰者の被害者意識の問題には触れていません。
むしろ自分の被害者意識を剥きだしにしている感じです。
そこは大いに問題です。
「御子である神とか呼ばれるその方が
ご自身と一つになっている者を守って下さるので、
悪い者が手を触れることはできず」
「まことの神は、天使を送って獅子が
ダニエルに危害を加えることがないよう
守って下さったのだそうです」
「天の神、主と呼ばれる方、あるいは御子である神と呼ばれる方は
ご自分に属する者を守って下さる」
自分は神に守られるべき人ということが前提になって
聖句を解釈しています。
守られるべき自分の姿勢や態度についての
問題意識がありません。しかも・・
「神は、私たちの願いの通りに動く神ではなく、ご自身で決定され、
ご計画の通りにことを運ばれる方」
と書いています。すなわち
神が敵から人を守る
という上の聖句の引用をすることは、
神がご自身で決定された結果として、
自分は神ご自身の願い通りの、
ゆえにまた、
キリストと一つになった人間
という前提であることを表しています・・。
さて、こういう決めつけは珍しくないのですが、
神によって退けられる「悪い者」
・・とは誰に当てつけた文句なのでしょう・・(嘆?苦笑?)
「「あなたを通してしようと思っていたことが全部できたよ。
良かったよ」と言っていただけるように」
子供相手に述べているのでしょうか。
今までも全体に、
特に自分の信仰について
掘り下げて考えることをしてこなかったのでしょう。
こういう姿勢だから罪の意識や傲慢や偶像から
自分をやすやすと除外してしまうのかもしれません。
批判を受けて書いているとは思えないし、
自分中心の正当化で、他者を無視して
婉曲的に返したつもりで悦に入っている態度でしょう。
当てつけや悪口や呪いは批判返しにはなりません。
人の信仰を人の立場で考えようとせず
少なくとも人より上の立場で考えているので
自分は神に守られるのが当たり前、
言い換えると
神は自分を守るのが当たり前
という決めつけになってしまいます。
これが神を恐れない傲慢ということです。
もちろん神が人を救うのに
人に条件や戒律を置かれては私などは救われません。
人に必要なことは
神の下にある民としての位置をわきまえること、
罪人としての節操を持つことだと思います。
そのために一番大切なことは、
神義つまり神の正しさを述べることではありません。
人には神の正しさは分かりません。
大切なことは人の罪の自覚だから、
それはつまり人の正しさを疑うことなのですが・・
・・そういう節操をわきまえない人は、
結局、何でも分かっている立場に立ち、
神に対して無遠慮で図々しいことを平気で言います。
比喩も交えて書いていきますが・・
コミュ
恐らく彼の中では
世界はもう完結して
既に終わったも同然なのだろう
罪も救いも
完了形にするのとも符合している
だから
終わった後の世界に目を向けることを勧め
夢のような神の国を語ることで
その素晴らしさを伝えようとする
だからプロセスとしての
苦悩や嘆きは
耐えれば素敵な恵みがある
という単純な言説で足りると思っていて
それだけを繰り返してくる
動きようのない神の道への通路を作り
繰り返しなぞることで
作った道から外れなければよい
と言いたいのだろう
賛同意見は歓迎するだろうが
反対意見は無視する徹底ぶりだ
人間は動くことで
何かを見出そうとする心を持っているが
彼は動くことを否定する
だから繰り返しの
刺激はするが
人に何を言われても
刺激を受け取ることはなく
ゆえに反応はない
セメントの壁に小石を投げているようなものだ
動くはずもないが
セメントになることによって
救いは約束されるというのだろうか
我が道が神の道だと疑わない
つまり邪魔するなと言いたいのだろう
自分のホームグラウンドで
笑顔のイエスマンたちと頷き合っているだけなら
自己満足の同好会のようなものだから
目に留めなければそれで済む
しかし引用は聖書からだし
聖書的な文言を並べれば
見た人の多くはキリスト教の記事だと思うだろう
キリスト教を安易に誤解されたくはないから
彼が批判を邪魔だと思っているなら
こちらは迷惑だと言わざるを得ない
発信しているだけで
誰かに聖霊が与えられて
本気で自分と一つになる人が出てくる
と思っているのかもしれないが
コミュに出て
人の意見は聞かないが
自分の意見は聞けと言う卑怯に
それは期待できるものなのだろうか
それは神の御心に適っていると思うのだろうか
そもそも人の意見を聞かず受けずで
コミュする気がないのなら
なぜコミュに出てくるのだろう
どうか誤解を受け取らないでほしい
キリスト教は牧師の上意下達ではありません
作り笑顔の同好会でもありません
キリスト教の世界は
貧しくても壊れていても
もっと豊かな双方向の活発な人間反応系です
(2014年11月21日、同日一部修正)
・・そういう節操をわきまえない人は、
結局、何でも分かっている立場に立ち、
神に対して無遠慮で図々しいことを平気で言います。
比喩も交えて書いていきますが・・
コミュ
恐らく彼の中では
世界はもう完結して
既に終わったも同然なのだろう
罪も救いも
完了形にするのとも符合している
だから
終わった後の世界に目を向けることを勧め
夢のような神の国を語ることで
その素晴らしさを伝えようとする
だからプロセスとしての
苦悩や嘆きは
耐えれば素敵な恵みがある
という単純な言説で足りると思っていて
それだけを繰り返してくる
動きようのない神の道への通路を作り
繰り返しなぞることで
作った道から外れなければよい
と言いたいのだろう
賛同意見は歓迎するだろうが
反対意見は無視する徹底ぶりだ
人間は動くことで
何かを見出そうとする心を持っているが
彼は動くことを否定する
だから繰り返しの
刺激はするが
人に何を言われても
刺激を受け取ることはなく
ゆえに反応はない
セメントの壁に小石を投げているようなものだ
動くはずもないが
セメントになることによって
救いは約束されるというのだろうか
我が道が神の道だと疑わない
つまり邪魔するなと言いたいのだろう
自分のホームグラウンドで
笑顔のイエスマンたちと頷き合っているだけなら
自己満足の同好会のようなものだから
目に留めなければそれで済む
しかし引用は聖書からだし
聖書的な文言を並べれば
見た人の多くはキリスト教の記事だと思うだろう
キリスト教を安易に誤解されたくはないから
彼が批判を邪魔だと思っているなら
こちらは迷惑だと言わざるを得ない
発信しているだけで
誰かに聖霊が与えられて
本気で自分と一つになる人が出てくる
と思っているのかもしれないが
コミュに出て
人の意見は聞かないが
自分の意見は聞けと言う卑怯に
それは期待できるものなのだろうか
それは神の御心に適っていると思うのだろうか
そもそも人の意見を聞かず受けずで
コミュする気がないのなら
なぜコミュに出てくるのだろう
どうか誤解を受け取らないでほしい
キリスト教は牧師の上意下達ではありません
作り笑顔の同好会でもありません
キリスト教の世界は
貧しくても壊れていても
もっと豊かな双方向の活発な人間反応系です
(2014年11月21日、同日一部修正)
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