沈黙
 
 
旧約聖書 詩篇
28:1
主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。
わが岩よ、わたしにむかって
耳しいとならないでください。
もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、
わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。
 
新約聖書 マタイによる福音書
20:31
群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、
彼らはますます叫びつづけて言った、
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
20:32
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、
「わたしに何をしてほしいのか」。
20:33
彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。
20:34
イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。
すると彼らは、たちまち見えるようになり、
イエスに従って行った
 
祈りはしばしば叫びであります。
叫びはしばしば必死の叫びであります。
同じようなことを繰り返す説法と違って
命の叫びであり、死活の崖っぷちの叫びであります。
 
聖書においては
祈り叫ぶとき神様またはキリストが答え
奇跡を起こし救うという話が書かれています。
 
しかし今の時代に生きている私たちはよく知っています。
予測さえするでしょう。沈黙は最後まで沈黙であろうと。
 
遠藤周作の「沈黙」のテーマでもあります。
神がいなかったら・・と考えたほうが説明がつきそうな気がする。
しかしそう考えた途端、沈黙は孤独と絶望になり
いかなる救いもなくなるのです。
 
神の沈黙は
現代に生きる信仰者にとって大きなテーマであります。
 
 
「イエスが十字架に架けられて死なれ、葬られ、
 3日目に墓より復活し、天に帰られた今は、
 イエスに代わって派遣されているもう一人の方、
 聖である霊と呼ばれる方について行く」
 
「この方が、私たちの心に
 置いて下さる天の父と呼ばれる方の御思いについて行けばいい」
 
「イエスの十字架に合わせられて、
 生まれたときからの霊という私が十字架につけられ、
 処刑された者は、聖である霊とか御霊とか呼ばれる方をお迎えし、
 この方が置いて下さる思いに導かれて進めばいい」
 
教理的文言を繰り返し書いておけば
いつか通じるだろうと
一途に繰り返し続けるだけでよいのでしょうか。
 
肉体と肉声を持つキリストが叫べば答えてくれる
というわけにはいかない時代に
 
「霊について行く」「思いについて行く」
「思いに導かれて進めばいい」
 
こういうことばかり聞かされて
分かりましたと答えるなら
それはイエスマンの社交辞令でしかないでしょう。
 
すると
神の恵みと導きがないとね・・と聞いた側のせいにして
ますます意固地になって凝り固まるのでしょう。
そして「恵みのない者」「神の敵」という見なしがあり
信仰者の被害者意識を育ててゆくのでしょう。
 
その度に迫害を意識して
自己の罪性に鈍感になってゆくのでしょう。
 
広い門ばかり開けているようです。
その特徴は、安易・・
 
教理しか語らないという
まさしく一途な一方向だけの理性に他なりません。
 
 
(2014年11月22日、聖句引用 明記)
 
 
 
  一途
 
 
一途な信仰は大切なのかもしれませんが
一途に信じる途中で間違える可能性があります
 
一途に信じることの位置づけが
神の御心であるかどうか
神以外の誰にも分かりません
 
一途に神ではなく神のつもりの
自分の解釈や思路を信じている可能性を
除外しないことが大切なのです
 
そうすれば
間違いを思い直すことも可能になるでしょう
 
その間違いの可能性を考えずに進むと
一途に自分を信仰することになります
 
信仰と思っていることは
そう判断している人の
今の息に過ぎないのです
 
それでも人は
一息の判断で行動して
一息入れるしかないのです
 
その時か他の時か
除外しなかった間違いの可能性によって
反省し思い直す息も生まれるでしょう
 
へりくだるとは
見かけの物腰ではなく
過ちを犯す人の立場で祈る姿勢です
 
人の判断は一つの息であり
不変の確信ではありません
 
信仰の強さとは
不変の確信を得ることではなく
一つの息を思い切り呼吸すること
 
そうすれば一つの息が過ぎ去り
新しい息によって
過ちを犯したと気づいて
赦しの祈りに立ち返ることが出来るでしょう
 
人の命は息のように過ぎ去りますが
生きている間の息はその度に新しくなります
 
一途とは
息であることに一途であることであり
一途は一つの息を生み
吸って吐いて
一生涯につながっていく歩みなのでしょう
 
 
(2014年11月22日)