人間なら
どこまで事実か分からない二千年前にこだわり
いつ来るか分からない未来の終末にこだわり
今の自分を省みない信仰者にはなりたくないのです。
教理は解釈の一つのモデルです。
信仰の対象ではありません。
教理と信条に縛られる信仰は
人間性を損なう可能性があると思います。
遠藤周作の「沈黙」について
もう少し述べてみたいと思います。
小説のクライマックスでは
宣教師が踏み絵を踏まないと
農民が一日に一人ずつ処刑されてゆくという状況です。
結局、宣教師は悩んだ末に
絵踏みをして転ぶというストーリーです。
役人からはそれで十分なので宣教師は長らえます。
踏む前に踏絵から
キリストが「踏みなさい・・」と語りかけるのですが
たといキリストの語りかけがなくても
人間なら踏むしかないと思います。
もし仮に
ずっと宣教師が絵踏みせず
次々に農民が殺されていって
宣教師が「信仰を守った」なんて言ったとしたら
この宣教師はもはや人間ではないと思います。
絵踏みは他に農民を救う手段がないから
やむを得ず取った行動です。
裁きは神に任されます。
この絵踏みゆえに背教と見なされるなら
私は信仰などクソくらえ・・なのです。
聖書には私が読んだ範囲でも
分からないところが結構あります。
創世記(旧約聖書)
22:2
神は言われた、
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、
わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
・・・
22:7
やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。
彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。
イサクは言った、
「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
22:8
アブラハムは言った、
「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。
こうしてふたりは一緒に行った。
・・・
22:10
そしてアブラハムが手を差し伸べ、
刃物を執ってその子を殺そうとした時、
22:11
主の使が天から彼を呼んで言った、
「アブラハムよ、アブラハムよ」。
彼は答えた、「はい、ここにおります」。
22:12
み使が言った、
「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。
あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、
あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
最後の「今知った」というのも
神は全知なのに・・なんだよ・・と言いたくなりますが、
アブラハムが息子イサクを殺す寸前で神は止めた、
最初からそういう神の意図だった、
殺させはしなかったという解釈もあるでしょうけれど、
アブラハムはイサクを殺そうとしたのです。
神が止めなければ
アブラハムはイサクを殺しただろうという流れです。
神を信仰していたアブラハムがおかしいと思うのです。
アブラハムが人間であるなら
「どうか、息子の代わりにわたしを殺してください、
どうしてもとおっしゃるなら、私は死にます」
とか言うべきでしょう。それで背教なら、
私の信仰など・・クソくらえ・・なのです。
士師記(旧約聖書)
11:30
エフタは主に誓願を立てて言った、
「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、
11:31
わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、
わたしの家の戸口から出てきて、
わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、
その者を燔祭としてささげましょう」。
・・・
11:34
やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、
彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。
彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。
11:35
エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、
「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。
わたしを悩ますものとなった。
わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。
・・・
11:39
二か月の後、父のもとに帰ってきたので、
父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。
彼女はついに男を知らなかった。
やっちゃったよ・・娘を焼き尽くした、生贄に・・?
神様も酷いが、エフタもおかしい・・
神はイサクの時のように止めてさえくれない。
私の信仰など・・クソくらえ・・なのです。
無理をするなら新約の
「誓うな」という教えにつながる?
以上の二つは分からないというより
おかしいと私は思っています。
このような聖書の記事からでしょうか、
私にとって
神は恐ろしい御方、
見たくない、近づきたくない、
親しく交わるなど、とんでもない、
「畏まる(かしこまる)」の「畏れ」ではなく
恐怖の「恐れ」なのです。
全知全能、絶対、に人は耐えられない・・
聖書を引用しておかしいと言い
恐怖の対象として神を見ている私が
なぜ信仰者であり続けているつもりなのでしょう。
キリストから信仰に入ったからです。
キリストは解釈や律法について詳しい人々に厳しく、
一方で
社会から罪びとと見なされた人々に
むしろそういう人々を選んで
限りない慈しみを示した御方、
・・そして抵抗もせずに殺される・・
キリストにこだわり引っかかり離れられない、
これが私の信仰の拠り所です。
そのキリストが父と呼ぶから神を信じかつ恐れ、
キリストが汚すなと言うから聖霊を信じているということです。
私は救われて天国に行きたいとかよりも
人間でありたいから信じているのです。
教理的な救いの契約とか、
そこからだらだら流れてくる救いの
何やら仕組みの取扱説明書のような理屈とお話
・・など、どうでもよいのです・・
(2014年11月23日)
(2014年12月04日、一部修正)
コメント