不変
 
 
神は不変であるというのは
全知全能の完全で永遠である
というのと同じことで
 
これは決して人には当てはまらないことです。
 
人は絶対でも全知全能でも完全でもないので
不変であるはずがないのです。
不変であってよいはずはないのです。
 
人は変わらないつもりでも
変わってゆくものです。
頼りなく移ろう生き物です。
 
神は最初からおられ
永遠で死ぬことがありません。
人は生まれてきて
必ず死んでゆくのです。
 
神は絶対です。
人は欠点だらけです。
 
今さらこんなこと書かなくても明らかでしょう。
 
神が信仰を与え
人が信仰を受け取るのですから
受け取った人が変わる以上
信仰もうっかりすると恐ろしく変質してゆきます。
 
信仰が不変だと思っている人は
よほど不変であることにしたい人です。
 
神が不変の存在で
聖書と解釈モデルとして教理があっても
神の創造物として
人は成長のないモデルではいけないはずです。
 
悔いることのない人は
神を称えながら実は
成長をやめてしまった自分を称えているのです。
 
神は不変だから信仰も不変で心配ない
と言う人は知らない間に
自分が排泄した悍ましい堆積物に隷属することになるでしょう。
 
 
(2014年11月24日)
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  キリストの神格と人格
 
父・子・御霊(みたま)の三位一体でも
神が遣わされた神の子でも
いいのです所詮は聖書の解釈に過ぎず
全知全能の神は
全知でも全能でもない人によって
規定されるようなお方ではないのです
キリストは人か神か
キリストの神格を否定はしません
しかし
キリストが救いを人に述べ伝えるとき
神のレベルで話して人に伝わるでしょうか
神性は人間性から見ると
しばしば理不尽でさえあるのです
人間に理解できるキリストは
あくまで人間のレベルで
語りかけてくださるキリストです
神格が人格の低みに
身を下ろしてくださったとき
キリストはメシア以上の
イエス・キリストとなられました
 
 
(90年代後半から・・?)