教え
伝道の書(伝道者の書、コヘレトの言葉)
(コヘレトは伝道者の意)(旧約聖書)
3:14
わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、
これに加えることも、これから取ることもできない。
神がこのようにされるのは、
人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
3:15
今あるものは、すでにあったものである。
後にあるものも、すでにあったものである。
神は追いやられたものを尋ね求められる。
壊すにも造るにも
創造主である神は人に相談する必要はないのだし、
恐れも慈しみも変わることはないのです。
しかし
人の信仰は変わります。
成長することもあるでしょうし、
変わらないと思っているうちに
腐ることだってあるのです。
人は答えを知りたがり、
ゆえに信仰は固定観念になりやすく、
人の解釈も永遠不変であるかのように語り、
自分が守ってもいない教えを
答えとして人に教えたがるのです。
・・と、前の記事を引きずりながら前置きして・・
マタイによる福音書(新約聖書)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、
情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
・・・
5:33
また昔の人々に
『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』
と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34
しかし、わたしはあなたがたに言う。
いっさい誓ってはならない。
天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。
またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36
また、自分の頭をさして誓うな。
あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
・・・
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。
悪人に手向かうな。
もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、
ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、
その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
27,33,38,43節は旧約の教えになります。
それに対してキリストは、
「情欲をいだいて女を見ること」
「誓うこと」
「悪人に手向かうこと」
「敵を憎むこと」をするな、
つまり罪だから禁じるということでしょう。
特に28,39,44節は
キリストの教えとしてよく知られている箇所です。
旧約よりも厳しいと言ってよいでしょう。
情欲を抱いて女を見る男がいなくなったら
人類は滅亡するというのに・・
憎まず愛せたら敵とは呼ばないのに・・
守れるのはキリストご自身だけかもしれません。
守らないと救われないなら
私はキリスト者にはなっていません。
前にも述べたことですが、
キリストは厳しい教えとは裏腹に、
社会から罪人と見なされていた人々に近づき
限りない慈愛を示し彼らを愛されました。
これは一つの解釈に過ぎないのですが・・
キリストは人々が教えを守れないことを既に知っていた
とも思えます。
ペテロの裏切りも予測しておられたくらいですから
あり得ないことではないでしょう。
前にも書きましたが、
キリストが無理な教えを語られたことは
罪なき人は一人もいない
ということを表しているように思えるのです。
それを示しているかどうか・・
キリストが罪びとに優しく、
自分には罪は無いと思っている人に厳しかった
という例を挙げてみると、
ヨハネによる福音書(新約聖書)
9:41
イエスは彼らに言われた、
「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが
『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
「見える」は盲人の譬えとして、
「分かっている」「知っている」と言い換えてもよいと思います。
「分かっている」つもりになるところには罪があるのだと思います。
分かっていて知っているつもりの人にとっては
人の信仰も
神と同じように不変であることが好都合なのです。
※ 補足として
当時は病気や障害も悪霊の仕業として
社会から罪とされていたことを付け加えておきます。
ルカによる福音書(新約聖書)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。
そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、
『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、
不正な者、姦淫をする者ではなく、
また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12
わたしは一週に二度断食しており、
全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、
目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、
『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。
神に義とされて自分の家に帰ったのは、
この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう」。
このように傲慢は厳しく戒められています。
こんなの守れない・・は、どうしようもないことかもしれないが、
傲慢については、人が気づきさえすれば、
その都度、改めることが可能だからでしょうか。
そして人の傲慢は何より
神に対する傲慢だからだと思います。
冒頭の伝道の書の引用にもありますが、
神を恐れること、
これが信仰の初めにあるべきだと思います。
少なくとも改める気持ちがないと
具体性も説得力もない憧れを並べることになります。
キリストの教えは、
教え通り守ることよりも
教え通りに出来ていない自分を考える糧としたほうがよい
という印象を持っています。
(・・他の格言や名言とかにも似たようなことを感じます・・)
死活の崖っぷちにいる人は
救いの言葉に縋(すが)りつくしかないでしょう。
そういう時は誰にでも必ず来ると思います。
しかしそういう時ばかりではないのなら
教えを答えと受け取るだけで、
立派だ、あのようになりたい、キリストと一つになりたい、
と憧れて讃美を繰り返すよりも、
人間と自分自身について
人間の立場で考えるべきことが沢山あると思います。
信仰は神の賜物、答えを出す必要はないのです。
人間の理性を邪悪と考える人がいるようですが、
答えが出たかのように
自分の答えを無批判に認めさせたがる人が多い時代、
信仰者には新鮮でアクティブな心が必要です。
神を仰ぎながら神の価値基準を知り得ない世界に生きて
一人一人が自らの価値基準を持ってしまった人間だからこそ、
自らを省みて神との決定的な違いに気づくために
自ら思考停止を招かないことが一番大切だと思います。
キリストの教えを聖書で読むならば、
答えよりも多くの問いが
生きている人に糧として与えられるでしょう。
(2014年11月25日)
(2014年11月26日、一部修正)
(2014年12月03日、若干修正)
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