前置き・・(長い・・)
ドラマなどを見るとき
主役の俳優は
主役に成りきって演じます。
だから真実味があるわけですが
一歩引いて考えると
共感や感動が生まれるのは
実話でもフィクションでも
もう一人の主役が
感情移入して見ている自分だからです。
ストーリーの中の主役の言動に
自分の経験と言語世界から
主役らしい言動を時には予測さえしている
主役はドラマの中の主役とは限らず
脇役や傍観者である自分になって
自分を含む仮想のドラマの中で
感動を生み出している主役の自分がいます。
そこにはかなりの思い入れが伴うので
当たったり外れたりします。
ドラマであり何より娯楽でもあるから
外れても「そうだったか・・」で
また自分でその世界を作り直してゆきます。
あるいは「本当はこうだ・・」と
勝手に思い込みを強くすることもあるでしょう。
当てが外れても害はないのです。
娯楽だから
人間ドラマだから
いろんな想像を掻き立てて楽しみます。
さて、神様のストーリーで
同じような思い込みがあった場合
神様に人が思い入れを託した場合はどうでしょう。
神様大好き人間の確信は
容易に改まるということが難しくなります。
違うという展開が分かりにくいからです。
ことの成り行きが示してくれるとは限らない
さらに神様大好き人間は
成り行きさえも自分中心に見方を変えて
神様ストーカーになってしまうからです。
そして何よりも神様を主役に見立てているが
本当の主役は自分になってしまっています。
娯楽ではないから
神様のストーリーだから
その楽しみの向かう先で起こることは
神様を信じる人々に向かいます。
他の人々を巻き込みます。
とても大きな実害の種を蒔くでしょう。
そのように神様ストーリーを作り上げても
神様ストーカーは自分の作った虚構などとは
全く思わないままなのです。
そのような忌まわしい事態を避ける方法は
神様ではなく人間を語ることに他ならないのですが
それは一番気づきにくいことなのです。
かくして神様ストーカーは
御心は計り知れないと口では言いながら
見ないで信じています。
見えない神ではなく自分の神様ストーリーを。
語れば語るほど破たんを重ねながら
苦しむこともなく今日も
神について得々と語り続けるのです。
(2014年11月26日、同日、以下加筆)
ドラマなどを見るとき
主役の俳優は
主役に成りきって演じます。
だから真実味があるわけですが
一歩引いて考えると
共感や感動が生まれるのは
実話でもフィクションでも
もう一人の主役が
感情移入して見ている自分だからです。
ストーリーの中の主役の言動に
自分の経験と言語世界から
主役らしい言動を時には予測さえしている
主役はドラマの中の主役とは限らず
脇役や傍観者である自分になって
自分を含む仮想のドラマの中で
感動を生み出している主役の自分がいます。
そこにはかなりの思い入れが伴うので
当たったり外れたりします。
ドラマであり何より娯楽でもあるから
外れても「そうだったか・・」で
また自分でその世界を作り直してゆきます。
あるいは「本当はこうだ・・」と
勝手に思い込みを強くすることもあるでしょう。
当てが外れても害はないのです。
娯楽だから
人間ドラマだから
いろんな想像を掻き立てて楽しみます。
さて、神様のストーリーで
同じような思い込みがあった場合
神様に人が思い入れを託した場合はどうでしょう。
神様大好き人間の確信は
容易に改まるということが難しくなります。
違うという展開が分かりにくいからです。
ことの成り行きが示してくれるとは限らない
さらに神様大好き人間は
成り行きさえも自分中心に見方を変えて
神様ストーカーになってしまうからです。
そして何よりも神様を主役に見立てているが
本当の主役は自分になってしまっています。
娯楽ではないから
神様のストーリーだから
その楽しみの向かう先で起こることは
神様を信じる人々に向かいます。
他の人々を巻き込みます。
とても大きな実害の種を蒔くでしょう。
そのように神様ストーリーを作り上げても
神様ストーカーは自分の作った虚構などとは
全く思わないままなのです。
そのような忌まわしい事態を避ける方法は
神様ではなく人間を語ることに他ならないのですが
それは一番気づきにくいことなのです。
かくして神様ストーカーは
御心は計り知れないと口では言いながら
見ないで信じています。
見えない神ではなく自分の神様ストーリーを。
語れば語るほど破たんを重ねながら
苦しむこともなく今日も
神について得々と語り続けるのです。
(2014年11月26日、同日、以下加筆)
「神様ストーカー」は「ストーカー」が「忍び寄り追いかける人」
という意味で、神様を追いかけることは出来ないから
不適切かもしれませんが、ここでは
神様と同じになっている教理の筋道を追いかけ確認する人
という意味の比喩として使っています。
教理
ひょっとしたら誰よりも信仰を語っている本人が
いちばん信仰について無関心なのではないか。
何か物を扱っているようにさえ見えることがある。
毎日毎日、順を追って
扱いに支障はないか確認しているようだ。
そんな確認は神に対して通用しないのだから
明らかに人が人の所有を確認している。
聖書を解釈して作った一つの教理に
割符を合わせるようにぴったり合ってしまう人
というのが世の中にいるのだろう。
そういう人は教理を信仰とするし
人にも信仰として教えようとする。
しかしそれは教理という一つの思想に過ぎない。
謂わばその教理は
一つのストーリーのようなもので
神は主役として登場するに過ぎなくなっている。
人がそう定めたからだ。
問題はそのストーリーが教理として、
人の話ではなく、
神の話として語られるということだ。
そう信じてしまうと
反する者は神の敵ということになってしまう。
敵が自分つまり人の敵に過ぎなければ
ときに譲り合ったり
残酷なことを控えたり
少しは人が人に情けをかけることもあり得るが、
神の敵となると
相手を人間と思う必要さえなくなり、
滅ぼしつくさなければならない、
根絶やしにするのが正義ということになる。
こういう「大義」こそ
昔から今に至るまで
宗教戦争や宗教テロの
そして原理主義を形成する種ではないか。
そういう意味で
キリスト教が日本でメジャーでないことは
むしろ幸いなのです。
リバイバルなどしてもらっては困るのです。
必要なのは復興ではなく改革だから。
日常的な世界から
非日常的な神の領域を
仰ぎ信じること
それが信仰なのだが
ゆえに信じ方の正邪は
常に神に任されているのだが
教理というものを
神の教科書として学ぶか
人の作った参考書として学ぶか
神の教科書は
いかなる聖書解釈をもってしても
誰も作れません。
なのに 聖書=神の言葉=教理
と考えている信仰が・・むしろ多いのです。
人の学問や教理的思考の整合性は
神には当てはまらない。
神に当てはまるかどうか分からない
と書くべきかもしれないが
人は人の言葉を使うしかないのだから
人の言語世界では
神には到底当てはまらない
・・としか言いようがないと感じる。
(2014年11月26日、同日一部修正)
教理
ひょっとしたら誰よりも信仰を語っている本人が
いちばん信仰について無関心なのではないか。
何か物を扱っているようにさえ見えることがある。
毎日毎日、順を追って
扱いに支障はないか確認しているようだ。
そんな確認は神に対して通用しないのだから
明らかに人が人の所有を確認している。
聖書を解釈して作った一つの教理に
割符を合わせるようにぴったり合ってしまう人
というのが世の中にいるのだろう。
そういう人は教理を信仰とするし
人にも信仰として教えようとする。
しかしそれは教理という一つの思想に過ぎない。
謂わばその教理は
一つのストーリーのようなもので
神は主役として登場するに過ぎなくなっている。
人がそう定めたからだ。
問題はそのストーリーが教理として、
人の話ではなく、
神の話として語られるということだ。
そう信じてしまうと
反する者は神の敵ということになってしまう。
敵が自分つまり人の敵に過ぎなければ
ときに譲り合ったり
残酷なことを控えたり
少しは人が人に情けをかけることもあり得るが、
神の敵となると
相手を人間と思う必要さえなくなり、
滅ぼしつくさなければならない、
根絶やしにするのが正義ということになる。
こういう「大義」こそ
昔から今に至るまで
宗教戦争や宗教テロの
そして原理主義を形成する種ではないか。
そういう意味で
キリスト教が日本でメジャーでないことは
むしろ幸いなのです。
リバイバルなどしてもらっては困るのです。
必要なのは復興ではなく改革だから。
日常的な世界から
非日常的な神の領域を
仰ぎ信じること
それが信仰なのだが
ゆえに信じ方の正邪は
常に神に任されているのだが
教理というものを
神の教科書として学ぶか
人の作った参考書として学ぶか
神の教科書は
いかなる聖書解釈をもってしても
誰も作れません。
なのに 聖書=神の言葉=教理
と考えている信仰が・・むしろ多いのです。
人の学問や教理的思考の整合性は
神には当てはまらない。
神に当てはまるかどうか分からない
と書くべきかもしれないが
人は人の言葉を使うしかないのだから
人の言語世界では
神には到底当てはまらない
・・としか言いようがないと感じる。
(2014年11月26日、同日一部修正)
(2014年11月27日、一部修正)
コメント