信仰者
 
 
クリスチャンの接頭語のように
付けられる「敬虔」はというと・・
おとなしく口数少なく
社会のお邪魔にならない控えめな人々
・・これは全くクリスチャンのあるべき姿ではありません
 
クリスチャンであってもなくても
人は必ず社会のお邪魔になっているし
言論においては大いにお邪魔になるべきだと思っています
 
信仰に常識以上の禁句があるわけではないし
信仰は言論の自由を制限するものではない
 
さらに言うなら人はしょっちゅう
神様のお邪魔になっている
くらいのことは考えておくべきでしょう
 
 
どんなに考えても考えなくても
人は神の筋書きを知ることも作ることもできません
でも
神はこんな御方
キリストはこんな御方と
想像し憧れるのは信仰者の不可避な常であります
ですから
そのイメージやストーリーが自分の思い込みであり
神の事実ではないことを自覚することが
神を恐れることだろうと思います
 
へりくだるとはそういうことだと思います
敬虔も謙虚も同様です
 
 
神への恐れを抱くなら
いかに過激で強烈な断定を行っても
時々に節々に
神に対して自分を低くする態度が表れるでしょう
 
神への恐れを抱かないなら
いかに優しく柔らかい表現を用いても
時々に節々に
神に対して無反省な態度は表れてしまうのです
 
 
あくまで大ざっぱな話ですが
クリスチャンは何やら使命感を持ってしまうので
反対意見をぶつけられたとき
 
返す言葉がなくて悲しげな当惑の表情を浮かべるなら
何を言いたいのかまだ分からないから
当然当分は待つことになります
 
信仰の優しさと厳しさの問題になるから考えてみる
といったような冷静な応答の出来る牧師は非常に少ないです
 
返す言葉か表情か態度が一変して
目をつり上げて怒った顔になるか
とても冷たい顔になるか
人を食ったような悟り顔の笑みを向けるかして
聖句か教理的聖書語でも捲し立てるなら
頬を差し出すわけには全然いかないので
見込みなしと判断して少なくとも一旦その場を去りましょう
 
疑問や反対意見を言うことは全く正当ですが
それが通用しない教会組織やキリスト者に対して
逆に根深い怨みが固定してしまう前に去ったほうがよいです
 
去ることに対してひょっとして例えば・・
 
マタイによる福音書(新約聖書)
18:20
ふたりまたは三人が、
わたしの名によって集まっている所には、
わたしもその中にいるのである」。
 
・・とかを持ち出して
教会で洗礼を受けないと
教会に通わないと
キリスト者とは見なされない
などと言う人がいるかもしれませんが
原因作ったのはそう言ったその人たちなのです
 
洗礼の有無や教会に通っているかどうかで
信仰者かどうかを判断する資格は人にはありません
それは神が決めることです。
 
 
人間は関係の中で生きているので
ひとりで孤立しているよりも
集まって祈りを捧げられるなら
そのほうがよいとは思いますから
洗礼を受けなくてもよいとも
教会に通わなくてもよいとも言いませんが
そうならざるを得なくなったら仕方ないのだし
神に対して自分を偽り続けるよりはマシでしょう
 
聖書と祈る気持ちがあれば
信仰は誰にも否定できません
 
何よりも
人の信仰を裁くのは神だけです
 
神を恐れてください
 
人を恐れないでください
 
 
(2014年11月27日)
洗礼を受けていない求道者もほぼ同様だろうと思います。
なおここでは
クリスチャンとキリスト者と信仰者は同義として、
よく分からないが気分次第で?使い分けています。