反面教師は批判の動機と題材だけは与えてくれる
と前に書きましたが
それは批判対象が批判返しつまり反論をしてくれる場合です。
 
批判を読んでいないか読んでも
全く無反応でいられるほどの
非人間性を持ってしまっている場合は
 
こちらは批判しているのに
同じことや似たようなことを繰り返すだけなので
発言に対する批判の題材が増えるというわけにはいきません。
同じ批判を毎回平気で書けるほど無神経にはなれないから。
 
自分の教理的内容を繰り返すのは
人の信仰が不変だから
変わりなく繰り返すことが信仰だと思っているのでしょう。
 
神様からの良い話なら誰が拒否するでしょう。
人からの話だから何度聞いても疑問を抱くのです。
しかも辻褄合わせの繰り返しだけで
完了しているから喜び楽しめというほうが無理なのです。
それで喜べると思うのならどうか出てこないで
独りで喜んでいてくださいと言いたくもなるのです。
 
そういうあちらの記事の有り様をもって
教えられたとおりの筋書きをずっと繰り返す人ですよ
という印象を並べることくらいしかできません。
 
前に似たような人がいて
人間とは思えなくなったので
批判を一時的に停止したことがあります。
そういう人が
キリスト教の世界には多いのだろうと推察します。
 
最初に言ったように批判に勝ち負けはありません。
元々勝ちを目指してなどいません。
 
罵詈雑言は別として
反応しない状態を是とすることは
一般の議論や話し合いでは稀です。
 
宗教において特異な現象のように思われます。
宗教の怖さと言うべきでしょう。
 
 
(2014年11月28日)
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
(1980年頃かと思う・・)
これは想像~イメージ~フィクションに過ぎません。
 
 
というわけで話を変えます。
 
 
  祈り・殺してくれ
 
自分についての祈り
「助けてください(生かしてください)」から
「殺してください」まで
 
「殺してください」と祈ることは
教理と体裁にこだわる宗教では
神への冒涜として禁句なのかどうなのか
よく知りませんが
 
死活の崖っぷちで祈るとき
自分の孤独と絶望と希死念慮が
少し和らぐこともあるようです
 
希死念慮というのは自殺念慮とは違うようで
むしろ希生不念慮とでも言うべきものかもしれません
 
自分の死について
神様に向かって身投げする姿勢です
神様以外に向かって身投げしない姿勢でもあります
 
教理とか教義とか信仰観とかが
何の役にも立たないことがよく分かります
 
 
(2014年11月28日)
 
 
  敬虔な
 
ケーケンなクリスチャンが
祈りをささげる場所になじめず
憐れみの眼差しに胸がいっぱいで
胸くそもいっぱいで
悟らない下等動物は
居場所を求めて
いい場所を求めて
あとずさりを始めた
ここでもない
そこでもない
気がついてみると後ろは崖で
もうあとずさりはできない
まわりには誰もいなかった
あざける者もいなかった
風がヒューヒュー吹いていなかった
教会はどこにあるのか
十字架はどこにあるのか
悟らない下等動物は
陰険なクリスチャンになって
祈りをささげた
ああこんなにも人畜無害であるのに
 
 
(96年か、それ以前)
これは想像~イメージ~フィクションに過ぎません。