他者
 
何かを主張するとき
自分は自分が染まっている言語世界から語るので
正しいと思っていても内容も表現も
誤解していたり誤解を招きやすかったりするので
他者の意見が重要になります。
他者の意見を受けて自分の意見を修正したり
さらに説明を加えたりする余地がそこに生まれます。
 
ということは
賛同者以外の他者の意見を聞かなくなると、
しだいに人間同士が意見を交わす必要を覚えなくなり
人間である他者にも自分にも問題意識を感じなくなって
言っていることの不備や偏りや間違いに気づかなくなります。
 
そうなると人の意見に対して
自分の意見を返すということもできなくなってゆきます。
 
それでますます意見交換をしなくなり
自分の言いたいことを言い放つけれど
その反応を知ることも
知りたいと思うこともなくなります。
 
そうすると
反対意見があまり来ないという状況が続いて
ますます今のままでよい
という人の言論としては致命的な
無謬性の一方通行を歩むことになります。
 
宗教活動には珍しくないことです。
神についてだから議論は必要ないという先入観があって
一方通行へ向かう自分を正当化してしまうのでしょう。
 
実際には
問題なのは神ではなく
受け取る側の人の問題なのですが・・
・・神の権威を借りて人を問題にしないのです。
そんな権威を神が貸した形跡はどこにもないのに・・
 
つまり人としての可変性を失えば
その態度を支えるために持ち出されるのは
神の無謬性になってしまうということです。
 
人にだって
人の傲慢の元も先も
ある程度見えています。
ただ傲慢な人にだけは見えていないのです。
 
受けることをしなくなったから。今日も。
 
 
(2014年11月29日)
 
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
わからないと
なぜ言えない
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
食道も塞がってしまうのだ
わからないと
なぜ言えない
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  わかったと
 
信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
わからない私は黙っていよう
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を喉に残したまま
吐き出さないでおこう
 
 
(96年か、それ以前)
吐き出さないでおこう・・と吐き出しているのです。
生きている限り黙っていることなんかできはしません。(加筆)
 
 
(補足・・私のスタンスとして)
 
もし議論や話し合いがあって
そのテーマが
 
神の御心はどこにあるかを確定すること
または
正しい聖書の解釈はどれかを確定する
ということなら
 
私は明確に
分からないことだ
と言うだけで議論を拒むでしょう。
 
確定ではなく
色々な意見を比較することが目的なら
どんな人でも
ある程度の意見を述べることが可能ですが、
 
確定となると
それは神のみが知ることであって
人間の側は確定した結論は持ち得ないからです。
 
そんなのを持ってしまったら
知り得ないことを確定するわけで
人による明らかな神の領域への越権行為になり
それだけで神に対する恐れを知らない傲慢
ということになります。
 
問題の性質上
明らかに人の領分を越えているということです。
 
 
(2014年11月29日)