問い
 
 
信仰は問いであって答えではありません。
問いに反応して人は考えることになります。
神様は人にすぐ分かるような答えを
与える御方ではありません。
 
なぜなら
もしすぐに答えが分かって
どうすればよいのかが分かって
出来ないときに
神様がその都度介入してくださるのであれば
戦争も災害も起こることはなかっただろうけれど
現実も歴史もそうなっていないからです。
 
ゆえに信仰とは考えることであり
決して無思考になって満ち足りることではありません。
 
そのために人には
思考も感性も与えられているのだろうと思います。
考えることが期待されていると思うべきでしょう。
 
信仰者が教理によって
どれほどの思考を奪われてきたか・・
 
信仰者は考えるキリスト者であって
理性を生かすのがキリスト者であって
 
理性を余計なものとして
排除するのは信仰ではありません。
誰かにとって都合がよいだけです。
 
自由に神と人について考えることが
人を隷属から解放するのだと思います。
答えは見つからなくてよいのです。
 
安易に答えを得ようとすると
答えが得られたつもりになって
達し得たつもりが積もってゆくだけです。
人の浅知恵に神の器は納まりません。
 
 
無思考に陥ると
ルサンチマンとしての弱者の道徳に凝り固まり
ルサンチマンとして他者への怨みから
呪いへの道をたどるようになるでしょう。
 
同じ無思考の人たちと一緒に固まって
一生を怨念の弱者として過ごさないでください。
自らを省みることの出来る自由な思考者として
解き放たれる希望に生きてください。
 
誰もが役にたてるように与えられている思考と感性を
神ではなく一部の人たちによって
信仰ではないから捨てよと言われても従わないでください。
その人たちにとって都合がよいだけですから。
 
 
問いを無視して放っておくと
人間はしばしば人間でなくなり現実感を失います。
まるで遠くの災害をテレビで見るときのように。
 
人間が人間であるというのは
日常の不断の入力と出力への志向と思考によって
反応性に与えられる賜物のようなものであって
むしろ人間であることが奇跡に近いのです。
 
怠ればいつでも
信仰も人間も虚構の物語になるでしょう。
私たち人間はしばしばそれを好んでしまうからです。
 
答えが見つからなくても
神様の下にある人間でありたいことは
祈りによって聞かれていることを信じたはずです。
 
 
いつかそれぞれの時が来て
この世を離れるときに
祈りか叫びとともに信仰は掻き消えるでしょう。
そこから先は信じる必要はないのですから。
 
 
(2014年12月01日)
私は哲学書も神学書も読んだことはありません。
ルサンチマン : 弱者につのる怨念。
私がネットと辞書で学んだ数少ない哲学用語の一つです。
ルサンチマンは恐らく
多かれ少なかれ誰にでもあるのではないかと思っています。