>示されるとおりに行動を起こしてみる
>具体的なことに当たって、私たちはいろいろ思いめぐらしますが、
>自分の思いはともかく、
>天の神、主が示されるとおりに一歩踏み出してみると
>次の一歩分の道が開けて、その一歩踏み出す。
>そうしているうちに気がついてみると向こう岸にたどり着いていた
>私たちと共にいて下さる方は、示されたとおりに一歩を踏み出す、
>その信頼を大事に思って下さる
聖書の奇跡物語を引用していますが、
それは奇跡だということを忘れているようです。
奇跡というのは
神の奇しき業として
起こるのが稀だから奇跡というのです。
「示される」と書いているようですが、
神が示してくれるというような書き方です。
どうして神から示されたと人に分かるのでしょうか。
また神は
人が迷うときにはいつでも
示してくれるという書き方でもあります。
それがはっきり人にも分かるかのようです。
すごく楽観的で多幸的な考え方です。
そういう考え方は
遅かれ早かれ現実によって叩かれて
それによって考えて
信仰は成長してゆくものだと思っていましたが、
ずっと同じ考え方のままというのが驚きです。
よほど恵まれた環境で生きてきたか
あるいは自分に起こったことを強引に正当化してきたか
神の前で体裁を取り繕っているか
いずれかだろう・・と感じます。
そういう人にとって
神は欲しいときにいつでも道を示してくれるような
便利さを持っているようです。
神が手とり足とり教えてくれるわけではない
ということを前に書きました。
これも前に書いたことなど思い出しますが
こういう批判を書くと
話し合う気もない人が
独りよがりの伝えた感いっぱいで
「神の恵みがないとね・・」
で話にならない終わらせ方をするような
絶望的な信仰者を見ることは珍しくないでしょう。
彼らは人の意見を理解することもなく
どんどん自己確信に捻れてゆきます。
伝わらないのは聞き方が悪い。
分からないのは信仰が薄い。
信仰があれば神の御心が分かるはずだ。
批判するのは背教者だからだ。
・・といった強烈な、かつ
するべきではない裁きを続けてゆくのでしょう。
そういう人たちというのは
甘い言葉で売り込む人と
はっきり言って変わりがなかなか見つけられません。
そういう彼らと関わるかどうかについては
人間としての経験と知恵をもって注意し警戒するべきでしょう。
捧げる
自分信仰者は
自分の都合のいいように解釈する
そしてそれを神の御旨だと決めつける。
敵と見なした者の不孝に勝利を喜びながら
取って付けたように「残念ながら」を添えて
信仰生活ではいろんな思いが生まれるが
決して自分や自分の思いを絶対としないことが信仰だ。
キリスト者であろうと思うなら
折に触れて今持っているキリスト教を捨てよ。
キリストを捨てるのではない。
捨てられるようなキリストではない。
折々があるのは
自分を焼き尽くさねばならないからだ。
信仰は自分の命を神に委ねることだが
実際自分の生涯を捧げているつもりで
生きているつもりの人もいるかもしれないが
人間の罪性を忘れている。
神に捧げているつもりでも
どこかに知らずに自我が入っているから
どこかで罪を犯す。
その罪を意識しないと
人はいつでも自分信仰者になるだろう。
今を守らなければ信仰がなくなるなら
信仰は元々なかったと思うべきだろう。
キリストに惹かれているなら
どんなに自分の信条を焼く尽くしても
信仰はその焼け跡から復活する。
(2014年12月27日、同日一部修正)
教理信仰、解釈信仰、自分信仰に
私が抵抗して批判しているのは明らかですが
数や勢いでは相手方のほうが圧倒的に優勢です。
しかし私は見て考えて無抵抗ではありたくないので
批判を続けることになる宿命なのでしょう。
それが神に与えられた使命かどうかは私には分かりません。
本質的に分からないことなのです。
だから人としての正しさを祈り願い
そして精一杯考えています。
分かっているつもりにならないと気が済まず
分からないという本質をわきまえない人を批判しています。
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