今日のテーマは有名なので知ってる人は知ってるから
・・言わずもがな・・かなとも思いますが・・
愛の讃歌
パウロの「愛の讃歌」
コリント人への第一の手紙(新約聖書)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐える。
(コリントⅠの13:4-7)
ここでパウロは感動的に
愛のあるべき姿を述べていますが
ここで思考を終えてしまうと
上のように行おうとして
上を行っている気分になるだけです。
なかなか守れないので人によっては
うんざりするかもしれません。
つまり上は愛の理想を語っているので、
これで終わりというわけにはいきません。
何ゆえ上を書かなければならなかったのでしょう。
暗に示されていることを考えるなら
愛の現実
「愛の讃歌」を否定(全否定?~部分否定)形にしてみます。
愛は不寛容であり、愛は時に非情である。
また、しばしばねたむ。
愛はしばしば高ぶり、誇る。
時に不作法であり、自分の利益を求める。
時にいらだち、恨みを抱く。
時に不義をよろこび真理を喜ばない。
そして、すべてを忍べず、すべてを信じられず、
望むことができないことがあり、
耐えることができないことがある。
これを考えることによって
現実の愛の有り様が浮かび上がってきます。
このような現実があるから
「愛の讃歌」を書く必要があり
読む必要があるということでしょう。
このように現実を踏まえて
上のパウロの「愛の讃歌」は
当為(「べき」の付くこと)が書かれている
というところまで考えることが必要でしょう。
好ましくない現実があるから理想を求めるのでしょうか。
愛の現実だけだと虚無的~刹那的になりそうですし
だからといって
愛の讃歌だけだと多幸的になるか
またはズルズル引きずって諦めの悪い人になりそうですが
「愛の讃歌」だけ読んでうっとりするのは
やはり片落ちというものでしょう。
事実と当為
現実と理想は不可分であり
どちらが欠けても片落ちということになると思います。
もちろん
二つ並べたから充分というわけではないでしょうけど・・
この箇所だけでなく
聖書を読んでうっとりとして
上辺だけ真似をして
満悦感に浸るのが信仰ではないことは言うまでもありません。
しかし実際、整った話だけで信仰を語ったことにする
という傾向は多かれ少なかれ見られることなのです。
(2014年12月28日)
「帯状疱疹」に個人的な事情を書きましたが
まさか同情はされていないとは思いますが・・
帯状ヘルペスウイルスによる帯状疱疹
と確定したわけではありませんし
基礎に悪性の病気があるかどうかも
今はまだ分かりません。
だから直ぐ死ぬとか遺言みたいに書いて
お涙頂戴などという意図はありません。
そういう意図で書いたのなら
私は卑怯者ということになります。
年を取ると死というものが
若い時ほどには不幸に思えなくなります。
死の真実を実感することは生きている限り不可能ですが
加齢によってますます死に対して鈍感になるというか
死は近くにあるのに分からないまま
ぴんと来ないものになっています。
もちろん人によって違うのでしょうけれど
私の場合は死そのものを怖がることより
今のところ
死までを生きるのに一番邪魔なのは苦痛です。
特に肉体的な痛みです。
肉体的苦痛は精神的苦痛をも増大させます。
その煩わしさを「帯状疱疹」に書いたつもりです。
痛みが我慢できる間は
他にすることもないので何か考えて
書いていきたいと思っている
ということに変わりはありません。失礼。
・・言わずもがな・・かなとも思いますが・・
愛の讃歌
パウロの「愛の讃歌」
コリント人への第一の手紙(新約聖書)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐える。
(コリントⅠの13:4-7)
ここでパウロは感動的に
愛のあるべき姿を述べていますが
ここで思考を終えてしまうと
上のように行おうとして
上を行っている気分になるだけです。
なかなか守れないので人によっては
うんざりするかもしれません。
つまり上は愛の理想を語っているので、
これで終わりというわけにはいきません。
何ゆえ上を書かなければならなかったのでしょう。
暗に示されていることを考えるなら
愛の現実
「愛の讃歌」を否定(全否定?~部分否定)形にしてみます。
愛は不寛容であり、愛は時に非情である。
また、しばしばねたむ。
愛はしばしば高ぶり、誇る。
時に不作法であり、自分の利益を求める。
時にいらだち、恨みを抱く。
時に不義をよろこび真理を喜ばない。
そして、すべてを忍べず、すべてを信じられず、
望むことができないことがあり、
耐えることができないことがある。
これを考えることによって
現実の愛の有り様が浮かび上がってきます。
このような現実があるから
「愛の讃歌」を書く必要があり
読む必要があるということでしょう。
このように現実を踏まえて
上のパウロの「愛の讃歌」は
当為(「べき」の付くこと)が書かれている
というところまで考えることが必要でしょう。
好ましくない現実があるから理想を求めるのでしょうか。
愛の現実だけだと虚無的~刹那的になりそうですし
だからといって
愛の讃歌だけだと多幸的になるか
またはズルズル引きずって諦めの悪い人になりそうですが
「愛の讃歌」だけ読んでうっとりするのは
やはり片落ちというものでしょう。
事実と当為
現実と理想は不可分であり
どちらが欠けても片落ちということになると思います。
もちろん
二つ並べたから充分というわけではないでしょうけど・・
この箇所だけでなく
聖書を読んでうっとりとして
上辺だけ真似をして
満悦感に浸るのが信仰ではないことは言うまでもありません。
しかし実際、整った話だけで信仰を語ったことにする
という傾向は多かれ少なかれ見られることなのです。
(2014年12月28日)
「帯状疱疹」に個人的な事情を書きましたが
まさか同情はされていないとは思いますが・・
帯状ヘルペスウイルスによる帯状疱疹
と確定したわけではありませんし
基礎に悪性の病気があるかどうかも
今はまだ分かりません。
だから直ぐ死ぬとか遺言みたいに書いて
お涙頂戴などという意図はありません。
そういう意図で書いたのなら
私は卑怯者ということになります。
年を取ると死というものが
若い時ほどには不幸に思えなくなります。
死の真実を実感することは生きている限り不可能ですが
加齢によってますます死に対して鈍感になるというか
死は近くにあるのに分からないまま
ぴんと来ないものになっています。
もちろん人によって違うのでしょうけれど
私の場合は死そのものを怖がることより
今のところ
死までを生きるのに一番邪魔なのは苦痛です。
特に肉体的な痛みです。
肉体的苦痛は精神的苦痛をも増大させます。
その煩わしさを「帯状疱疹」に書いたつもりです。
痛みが我慢できる間は
他にすることもないので何か考えて
書いていきたいと思っている
ということに変わりはありません。失礼。
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