たとえ
 
 
信仰者は神の民だから
人格として自由を賜っており
自由に表現することが出来ます。
 
前に書いた下手な俳句のようなもの
 
  登り来て雲海の上の民となり
 
書いたときには考えなかったけれど
思い付いたので信仰についての
譬えとして考えてみます。
 
実際には山登りはしないので
精神活動くらいの意味です。
 
エネルギーを使って山に登っても
人間であることに変わりはありません。
したがって
  雲海の上の人
ではなく
  雲海の上の民
であります。
神の民であることに変わりはありません。
 
(※「人」と書いてしまうと
   登り来て雲海の上の人となり  ・・?
 これは頂上に達して思い上がっている感じになるでしょう。)
 
山より高く自力では登れません。
天には届きません。
 
ただ高い所に登れば
少しは見通しはよくなるでしょう。
これが人知の為せる業の精一杯だと思います。
 
神の働きばかり我がもののように讃美して
人の理性を否定し
人知の為せる業を否定し
人の持っている精神機能を働かせないことは
人として
見通しの良い所へ向かうこともしなくなることです。
 
見通しの悪い所にとどまって
  総てが見える
  天と一体だ
と言うことに等しいのです。
 
そして動く人を登る人を
  空しい
の一言で済ませてしまうことになるのです。
 
 
(2014年12月28日、同日一部加筆修正)