>天の神、主は、私たちと心が通じ合う、
>思いを一つにし合う関係になりたいのだそうです。
>だから、私たちの思いの一つ一つを見せて欲しい、
>知らせて欲しいと思っていらっしゃると同時に、
>ご自分の思いも聞いて、知って、
>共有し合う間柄になって欲しいのだそうです
 
批判を始めたときから言ってることなんですが
神様から聞きました
みたいな・・この伝聞の「だそうです」は
とても気色が悪いです。
 
>御言葉をよく聞き、受け入れ、
>御思いと一つ思いになって、
>一つ行動をとる者に、
>共働する者になって欲しいのだそうです。今日も。
 
神の御言葉、一体どこで聞けるのでしょう。
聖書を読むということを言っているのでしょうか。
そういう言い方をするキリスト者は珍しくありませんが
キリスト者なら分かるでしょう
を押し付けられたようです。
さらに聖書は解釈次第で受け取り方が違います。
解釈によって教派とか分かれていることを考えると
あなたの言う神様の「欲しいのだそうです」は
結局誰よりあなた自身が「私の解釈は絶対です」から
私の言うことを神の御心として
神と一つ思いになり一つ行動になれ
と繰り返し言っているようなものです。
それは取りも直さずあなたが
私は神と一体だ
ということに等しいのです。
それを一度も否定していないでしょう。
 
 
  切り捨てのプライド
 
 
不潔または邪悪な言葉を極端に嫌う人がいます。
しかも徹底しないと気が済まないようです。
 
多くの人は極端ではなくても
自分のプライドと結びついて
物事を選別し
切り捨てているだろうと思います。
 
例えば「自己顕示」「嘘」とか
乱暴な言い方などは嫌われて
それを感じると
即断で切り捨ててみないようにします。
 
それは自分が自分であるための
個人の防衛なのかもしれません。
 
一方で嫌なものに対して
嫌なものを持っている人に対して
自分はお前とは違うと
自分を守ると同時に
他者を見下していることになります。
それを顕示することになります。
 
実際には自己顕示は
プライドと微妙にかつ密接に関連して
人格を表しているのです。
 
また不潔な言葉を嫌っても
人間はそれほど清潔にはなれません。
 
不潔な言葉を使う使わないでグループを分けても
その中にいる悪人と善人を分ける基準に
不潔な言葉を使うかどうかは役に立ちません。
 
また詐欺的な白々しい嘘は別にしても
虚実の虚となると
人間の本質と言ってよいくらい
嘘だからとゴミのようには
捨て去ることの出来ない重要なテーマにさえなります。
 
さらにまた罵詈雑言は別にしても
乱暴な言い方を見た途端に切り捨てることは
暗示されているかもしれない汲み取るべき他の部分の
可能性も一緒に切り捨ててしまうことになります。
 
乱暴や過激に対して反応してしまうより
激しい部分に意味があるかどうかを
落ち着いて判断する心が欲しいところなのですが・・
 
避けられないのでしょうか・・
人は本能的に~個性に応じて
切り捨てるプライドを持ってしまうようです。
 
というのも
動物と動物
動物と人
人と人
出会いという関係において
相手について最初に行われる判断は
自分にとって脅威になるかどうか・・
言い換えると
近づきたいならば
まず最初に
脅威にならない存在として傍らにいることが出来るか
ということから始めなければならない・・
それが出来れば関係は続き
出来なければ、または崩れれば関係は終わる
という宿命があるのでしょうか。
このような判断が最初になされる関係ならば
 
自分を守るために即断して否定し切り捨てても
言葉によって判断して切り捨てても
切り捨てるだけでは
本当に邪悪なものを否定したことになるのかどうか・・
 
ある程度は自分に対して遠慮会釈もなく
ストレートに言葉をぶつけてくる人のほうを
大切にするべきかもしれません。
そういう人は多くはないからです。
 
むしろ丁寧で耳に心地よいか
または邪魔にならない当たり障りのない言葉にこそ
最も偽善的なものは含まれやすいと思います。
 
 
(2014年12月28日)
これは明日アップしようなんて
私に余裕があるとは思えないので
書いたら書いたときに
あまり間を置かずにアップすることにしました。